《五年》(一)日本での初日は追突事故で終わった

(一)日本での初日は追突事故で終わった

2016年6月28日、上海から高松まで直行便で飛行し、わずか昼食1食分の時間しかかからなかった。

青空が広がり、飛行機から見ると、小さな島が点在し、おしゃれなカフェの抹茶ケーキのような青々とした丘が青い海に連なっていて、時折まばゆい光が反射して目を開けることができなかった。アフリカの草原を疾走するヌーのような飛行機が着地すると、ブレーキをかけて減速するときに地面と摩擦する抵抗を感じた。

空港を出ると、私は一口息を吸い込んだ。2017年に昆明の女子学生がメリーランド大学の卒業講演で述べたような、空気さえ甘いという感じはなかったが、上海の空気よりは少し澄んでいた。

妻であるMikuの両親は早くも空港の外で待っていた。荷物はトランクに積み、車を走らせて家に向かった。家に入ると、Mikuの母親が和風の味噌汁と寿司飯、お菓子を持ってきてあいさつを交わした後、書類を持って市役所に在留カードを取りに行った。

先日の夜、上海浦東のホテルでぐっすり眠った。荷物を何袋も担いで気力を費やしたにもかかわらず、あまり疲れていなかった。助手席に座っていた私は少し休みたいと申し出、背もたれを平らにしてシートベルトを締めたまま横になった。十数分ほどして、ぼんやりしているうちに、ドーンという音がして、私のふくらはぎが前方にぶつかり、すぐに異臭がして白い煙が上がってくるのと、Mikuの慌てた表情を見た。

私は急いで「何かあったのか。」と尋ねた。Mikuは「うっかり追突してしまった。」と答えた。

白煙がますます濃くなってきたので、万が一車が燃えたり爆発したりしたら危険なので、急いで降りようと提案した。そこで私はドアを開けて、道路の中央に立つと、後ろから一台の車がすれ違った。頭の上に灰色の雲が漂っていて、このシーンはまるで夢のようだった。

Mikuは慌ててどうすればいいのかと尋ねた。私は「大丈夫。追突しただけ。まず家に電話して、保険会社に連絡して、警察に連絡しよう。」と返した。Mikuは携帯電話を持っていないと言ったので、私たち二人は道路の中央に車を残して、まっすぐ道端の小さな会社に向かい、中の従業員から携帯電話を借りた。

塵一つ落ちていないような路面、灰色の縁石、石の隙間から出てくる野菊の花が風に吹かれて左右に揺れて、私はぼんやりと立って待っていた。その時、空から小雨が降ってきて、細くて、服が濡れそうな感じがした。ついにMikuの父親が駆けつけ、長年付き合いのあるトヨタのアフターサービスのスタッフに連絡して車を引きずって行った。警察が調書を取りに来て、事故の詳細を確認した。

この時、追突された車の所有者である70代の老人は、保険会社の従業員にどれだけショックを受けたか、首に怪我をしたので、病院に行かなければならないと言い続けた。後に保険会社を通じて知ったところによると、彼は年金生活者で、娘の家に行く途中だった。彼はMikuの車の任意保険を享受し、8、9ヶ月にわたって賠償金と無料の医療サービスを要求したが、怪我は大したことはなかった。機会を与えられたただの当たり屋だった。

車はトヨタの代理販売所まで引きずられて行き、整備士は1回検査して、1つの結論を出した:車はすでに廃車にしなければならない。ショックのあまり私は、「まさか、小さな追突だし、少し接触しただけで、バンパーさえが曲がっていない。白煙が出ているとはいえ、素人の私からすれば、修理しても使い続けることができるのではないだろうか。」と発言した。整備士は「この状况では日本で乗り続けることは禁止されている。」とはっきり答えた。そこで諦めて、ほとんど乗ることがないうちに廃車にされたこの車をあきらめるしかなかった。

そこで私達はトヨタの車の販売センターに来て3時間後、おしゃれで、また落ち着いた感じの1台の茶色の車を選んで購入する手続きをした。このように、日本での初日は追突事故で終わった。

好事魔多しであると自分を慰めた。翌日、電車で市役所に行って登録の手続きを済ませた。これから数日はずっと家にいて,表門からも、玄関からも出なかった。