《五年》(三十)年齢を聞かないで

(三十)年齢を聞かないで

私はこれまで年齢には関心がなかった。年齢は数字であり、何かを表すことはできるが、特に優れた人にとっては意味のあるものではない。自分が十分に優秀であれば、優秀さは年を取ることによる様々な劣勢を補うことができると思っていた。

歳は怖くないが、しかし時間は非情で、少しのためらいもなく、秒針は少しずつ歩いて、1週間が過ぎて、1ヶ月が過ぎて、1年が過ぎる。時間は、日本では他の国よりも速く流れているようだが、これは日本の100歳以上の高齢者が多い一因ではないか。人は知らず知らずのうちに、瞬く間に十年二十年が過ぎてしまう。

多くの日本人は年齢を聞くのが好きで、初対面でも何も話さないうちに、年齢を聞かれる。日本語の敬語の使い方と年齢の大小が関係しているからかもしれないが、やはりこうしたことには抵抗があって、自分の年齢を言いたくないことが多々ある。歳を重ねることを口にしては、自分の焦りを増す以外にはあまり効果も意味もない。

健康でさえいれば、働き盛りであり、自分からはあまり時間の流れを感じないのだが、他人の体からは明らかに時間の流れを感じることができる。子供の急速な成長、老人たちの急速な老いというような、彼らの外見の変化は、万物が時間とともに変化していることを世界の人々に知らせている。

時間を遅らせることはできないが、自分の時間の密度を変えることはできる。時間の密度は、人間の状態と外部環境に関係しており、外部環境は竜宮城での一日が一年として過ぎ行くことで、内部環境は自分が炎に焼かれ苦しんでいる間の感覚と、心地良い寝床で休んでいる間の感覚との違いというように理解できる。充実した1日は、長く記憶に残るので、可能な限り自分の時間の密度を高めさせる。

大切なのは時間で、自分の生命の中の時間を構成するのは自分だけではなく、身の回りの人も含まれる。「周りの人を大切にして、毎日できるだけ感謝の気持ちを見つけて生きていけば、人生が美しくなる。」神戸の大社長から聞いた言葉だ。

時間を大切にしなければならないのに、数字で表される年齢にこだわる必要がないというのは、年齢が変えられない事実だからだ。年を取れば取るほど良いことではないと思うのであれば、誰もが日々悪くなるという事実に直面しなければならない運命にあるのに、なぜその数字を強調し続けるのか。

日本人の中には「若いね」と羨ましそうに言う人もいるが、若くない人が年齢を聞かれると、聞いた人は「若くない」と心の中で嘆いてしまうのではないか。心の中でその数字に何かネガティブな色をつけてしまうのか。誰もが日々老いていくのに、なぜこんなに苦しめ合うのか。

眼鏡をつくりに行くと年齢を聞かれ、居酒屋やバーに飲みに行くと年齢を聞かれ、新しい友達と知り合って、相手の性別もわからないうちに年齢を聞いているかもしれない……年齢は確かに何かを表しているのかもしれないが、例えば35歳を超えると、有効な就職期間が社会の歯車に大量に搾取され続けることができなくなった場合、職場での発展が制限される可能性がある。40歳を超えて独身である場合、お金がないと相手を探すのが難しくなる……これらは社会から与えられた様々な制限なのではないか。ましてやこれらは個人的なことなので、利害関係のない人同士では、常に年齢を問わなくてもいい。

今のような環境下で、各国政府は潜在的に危険なワクチンを打つように人々を扇動し、強要しているので、一部のワクチンを接種した人はあと数年或いは十数年しか生きられないかもしれないので、年齢という数字はなおさら意味がない。

もっと幻想的に言えば、時間は存在しないかもしれない。ただの幻覚だ。自分たちで作った年齢の数字にこだわる必要はないだろうか。

30歳でCEOになったのに、50歳で亡くなった人もいれば、50歳でCEOになって90歳まで生きた人もいる。オバマ大統領は55歳で引退し、トランプ大統領は70歳で大統領になった。何を焦っているのだろうか。

年齢の話はしないで、私は自分が何歳かを決められる。