《五年》(二)高松の日本語学校

(二)高松の日本語学校

私の日本語のレベルはほとんど0で、来る前に上海で臨時の付け焼刃で、何ヶ月かの初級文法を学んだことがあるが、まだ五十音をも全部暗記することができていない。高松では、公共交通機関が発達していなくて、誰もが車を運転し、私は日本の運転免許証がないので、運転することもできない。

運転免許証を取るのはとても簡単なことではない。筆記試験は数十問の問題があって、間違った問題は一桁のみ許される。日本語のレベルがほぼ0の人に対して、更に無理がある。それ以外に、運転免許証を取るのに必要な費用も非常に高く、それらを考慮し、運転免許試験のことは棚に上げる。車を運転できないと、就活の範囲は周辺地域に限られてしまう。

就職活働を始めると同時に、全力を尽くして日本語を勉強し始めた。この硬い骨のような難題には遅かれ早かれ齧り付く必要があり、先延ばしにすれば百害あって一利なく、そこで市が運営している外国人に特化した日本語の訓練講座に申し込みをした。1週間に1回、毎回4時間、費用は極めて安かった。

初日の授業で、私は入念に身支度をして、自己紹介も用意した。教室には冷房が効いていて、四人のクラスメートが50代の女性の先生の周りに座っていた。私が入ってくると、彼らは熱心に振り向いて挨拶してくれた。先生は私にいくつかの質問をした。「どこの国の人?いつ日本に来たの?」

4人の学生はスーダンからの女子留学生、インドネシアからの主婦、中国東北部からのお姉さんとアメリカ人の女子大生だった。

先生は「中国人同士、お姉さんと一緒に座って。彼女はここで何学期も勉強しているから一定の基礎知識があって、分からないことは彼女に聞いて下さい。」と言った。実はこのクラスも始まって二週間になっていた。私は編入生で、お姉さんのそばに座ると、彼女は東北弁のなまりの強い共通語で私と話し始めた。

「私は日本人と結婚しました。それから日本に来たのですけど、私は偽装結婚していました。彼は私より20歳以上年上ですよ。」と、お姉さんがいきなり言ってきて、私の背中が冷たくなった。お姉さんはとても豪快で、会って3分もしないうちに、プライバシーをさらけ出した。お姉さんは日本に来てもう8年で、すでに日本の永住権を手に入れていた。最初は偽装結婚でしたが、その後ゆっくりと本当の夫婦になった。男性は彼女によくしてくれ、お姉さんと結婚する前に結婚歴はなくて、子供もなく、お姉さんは元夫との間に生まれた息子を日本に迎えた。

お姉さんは今、息子と市内のアパートを借りて住んでいるが、数ヶ月前に夫の家から引っ越してきた。中国から来た息子が姑に嫌われているからだという。お姉さん自身の分析によると、姑は自分の息子には子供がいないと考えており、法的には今後、すべての遺産がお姉さんの息子のものになるという点で、姑はこの息子を受け入れられないし、受け入れたくないという。

授業中、先生は恥ずかしがらないで、とみんなを励まし、お姉さんは少しも恥ずかしがらず、先生の質問に先を争って答え、先生は頻繁に礼儀正しく彼女を遮らなければならなかった。

高松に半年ほど住んでみると、日本にいる中国東北人の数は膨大だと気づいた。留学してきて卒業後もここに残って働いている人もいれば、親戚や友人の縁でレストランを経営しに来ている人、カキ工場や弁当工場で仕事をしている研修生もいれば、結婚して移住してきた人、かつての日本人孤児の子孫もいると発見した。

日本語教室の机は半円形に並べられ、私の右手に座っているのは、現在も戦乱と貧困の中にある南スーダンの出身で、地元の部族の首長を父に持ち、地元では裕福な家庭に属するスーダンの少女、エイシャさんだった。エイシャさんは香川大学で農業を専攻し、帰国後に現地の農業発展を支援することを目的とし、明確な目標と高揚した動機を持っていた。

彼女は黒人のイスラム教徒で、一日中ヒジャブを巻いていた。初日の放課後、エレベーターを待っていた時、彼女は私が中国人に似ていないと言い、私はエイシャさんが私の知っている2人目の美しい南スーダンの女性だと言った。3か月後,エイシャさんは南スーダンに戻っていった。

日本語教師のこの仕事はアルバイトで、普段先生は公立中学の国語教師をしているので、ここの授業の質は保証されていた。金髪碧眼の外国人もここで何学期も勉強した後、日本語の能力試験に合格することができた。

英語の先生である私にとって、日本語を勉強するのはそんなに難しいことではなく、語彙、文法、読解、作文、聴力、口語を公式に照らして頭に入れる。そこで、私は力を入れて、普通の人の3倍のスピードで日本語を勉強し始めた。

この日本語クラスで2つの授業を学んだ後、私は自分の独学のスピードが授業の進度より上であることを発見して、少し集中できなくなったので、申請して内容の更に深いクラスに行きたく、協会の責任者と相談した結果、順調に隣のクラスに交代する事が出来た。

エアコンは前の教室と同じようにとても寒くて、教室は1つの巨大な冷蔵庫のようで、外壁は透明なガラスレンガで、ガラスレンガの外は協会が植えたゴーヤが生えていて、繁茂したゴーヤのつるは壁全体を這って、青々とした葉は炎天下のまだらな光の影にきらめいて、一つ一つが短くて太い白いゴーヤは、ぶら下がっている翡翠のようで、外皮は乳白の光を発していて、学生たちはほとんど全員白いゴーヤを見たことがなかったので、競って写真を撮った。

このクラスの日本語教師は40代の独身女性で、一見30代前半のように見え、洗練されたショートヘアにピンクのフレームのメガネを合わせ、軽やかな足取りをしていた。まず自己紹介をするように言われた。生徒たちが順番に自分たちを紹介してくれた。紹介されてみると、中に中国人がいることを知った。中国の会社から日本に派遣されたエンジニアだ。高松の農民と結婚したタイ人もいて、家には巨大な農場があり、比較的裕福な家庭だ。フィリピン人もいて、同じく結婚して高松に移住してきて、現在弁当工場で働いている。インドネシア人の男子学生がいて、高松の大学で農業を学んでいる。

彼らの紹介時の口語表現を聞いて、私は心の中でひそかに考えた。この人たちの日本語のレベルは私より上かもしれないが、容姿を見ると、それぞれとても慈善的で友好的な様子で、雰囲気はリラックスしていて、何も心配することはなさそうだったので、思い切って最後に自分も自己紹介した。日本語の授業の学習は何事もなく平穏で、先生は進度を持って、授業の中で文法と文型を説明し、口語の一幕があって、授業の後の練習はテストと知識を強化する目的があった。

授業の休み時間にサプライズがあったり、タイの女性が自分の家で栽培したトマトや柑橘類をみんなに配ったりしていた。どれも小袋ごとに丁寧に包んでいた。タイ人女性は農場主と結婚して3年になるが、農閑期にはコンビニや工場でアルバイトをし、農繁期には仕事を辞めて家で収穫を手伝うという生活を送っていた。

日本語学校にはいろいろな人が居た。私はここで一ヶ月以上勉強した。日本に来てしばらく生活すれば教師なしで勉強できるので、日本語専攻の学生のように体系的に勉強する必要はないと言われたことがあるが、「もしあなたが日本できちんとした仕事をしたいなら、やはり体系的に勉強する必要があります。」と答えたいと思う。

日本語には敬語があり、うっかりすると相手を怒らせてしまうこともあるが、それは文法の間違いや発音の間違いを無視し、外国なまりを容認することを前提にしている。もし高圧的な年配の日本人に出会ったら、恐らく動詞の時制が間違っていた場合、相手はあなたの日本語のレベルが足りないと思って、更にあなたの業務のレベルも普通以下だと思っている可能性が高い。

どの言語もそうだ。方言はさておき、標準語でも地域性が強い。天津の人が「你干嘛(何をしているのか)」、湖南人が「(好多钱)いくら」と言うように、地域の特徴がはっきりしている。そんなことを踏まえて、基本的な文法すら身につけていない自分のことを考えると落ち着かない。日本語は紛らわしい擬声語や擬態語が世界で最も多い言語の一つであり、日本人に好まれている。同じ意味の形容詞や副詞ではなく、擬声語や擬態語を優先して意味を表現している。

日本語を勉強することを生活の中の一つの習慣にして、毎回落胆して、或いは自分に対していわば鉄が鋼にならないのを残念に思うような時、私は無意識に日本語にかじりついて、1つでも多くの単語を覚えて、1つでも多くの文法を身につけて、更に少しでも進歩することだと、心で思った。

2017年7月に日本語能力試験N3に合格し、12月にN2に合格し、2018年12月にN1に合格した。すべてを独学で勉強し、すべて一回で合格した。

独学で日本語能力試験の最高級試験に合格して、日本語のレベルを上げると同時に、自信もついた。N1は中国国内の日本語専攻学部生の必須要件であり、中国国内の日本語の達人にとっては特筆すべきことではないが、高校を卒業した後、日本で語学学校に通い、その後、日本で普通の大学に通う留学生の多くがN1に合格していないのも事実だ。