《五年》後書き

後書き

日本に来て5年になった。ずっと続けて仕事をしている。今まで大阪以東には行ったことがない。名古屋にも行ったことがない。東京にも行ったことがない。仙台にも行ったことがない。北海道にも行ったことがない。私の日本での素晴らしい人生はまだ始まったばかりだと信じている。

他の人を助けることができれば、それは最高だ。よく目にする自殺のニュースに対して、私は深く遺憾と痛惜を感じると同時に、もし自分が彼らに、日本はそんなに悪いところではなくて、今の生活は絶対ではないことを伝えることができれば、何かを変えることができるかもしれないと感じる。

日本は総じて良い国と言えるだろう。いずれにしてもここには民主主義、自由、相対的公平、ルール、豊かさ、安定があり、温泉卵、納豆、刺身、おでん、唐揚げ、お好み焼きなど、おいしい食べ物もたくさんある。これらに加えて、日本独特の美学、美しい文学、卓越した音楽を味わう価値もある。

この五年間は純粋に生活のために、日々接していたこと、考えていたことは物質的なことばかりで、日本文化のエッセンスに触れることが少なかった。日本文化の中にある「曖昧さ」の特質に対しても理解が非常に少なくて、何かを言いたい気持ちを抑える表現も、欠けたものを大切にする日本的な美意識も、日本人の丁寧な応対も、これからはその文化の「独特さ」をじっくり味わうべきだ。

家に電話するたびに、母は中国にいる親戚や友人たちが大金を稼いだり、会社から抜擢されたりしたことを私に教えてくれる。私は彼らのために喜ぶと同時に、今の自分の日本の生活状態を見てみると、特に心から満足しているわけではない。

一人一人の能力には限りがあり、生きているうちに一つのことを成し遂げることができれば十分だ。例えば、面白い本を書き、良い主婦になるなど。外では独立し、冷静に、知的に世界を観察し、内では情熱を持ちながら、心の中にいる永遠の若者を遠慮なく喜ばせるのが、日本で生きる最上の姿だと思う。

最後に付け加えておくと、本書は、私が認識している日本を本質的に抽出したものではない。それには更に何万字をも必要とするだろう。本書は私が経験したことを記録しているにすぎない。本書の中の多くのポジティブな言葉遣いは、すべて「火」のような私が書いたもので、私にも「水」のような一面があることを知っているならば、ある側面においては、ネガティブな感情を持って表現を逆に見ることも出来るだろう。その逆にも。

《五年》(三十)年齢を聞かないで

(三十)年齢を聞かないで

私はこれまで年齢には関心がなかった。年齢は数字であり、何かを表すことはできるが、特に優れた人にとっては意味のあるものではない。自分が十分に優秀であれば、優秀さは年を取ることによる様々な劣勢を補うことができると思っていた。

歳は怖くないが、しかし時間は非情で、少しのためらいもなく、秒針は少しずつ歩いて、1週間が過ぎて、1ヶ月が過ぎて、1年が過ぎる。時間は、日本では他の国よりも速く流れているようだが、これは日本の100歳以上の高齢者が多い一因ではないか。人は知らず知らずのうちに、瞬く間に十年二十年が過ぎてしまう。

多くの日本人は年齢を聞くのが好きで、初対面でも何も話さないうちに、年齢を聞かれる。日本語の敬語の使い方と年齢の大小が関係しているからかもしれないが、やはりこうしたことには抵抗があって、自分の年齢を言いたくないことが多々ある。歳を重ねることを口にしては、自分の焦りを増す以外にはあまり効果も意味もない。

健康でさえいれば、働き盛りであり、自分からはあまり時間の流れを感じないのだが、他人の体からは明らかに時間の流れを感じることができる。子供の急速な成長、老人たちの急速な老いというような、彼らの外見の変化は、万物が時間とともに変化していることを世界の人々に知らせている。

時間を遅らせることはできないが、自分の時間の密度を変えることはできる。時間の密度は、人間の状態と外部環境に関係しており、外部環境は竜宮城での一日が一年として過ぎ行くことで、内部環境は自分が炎に焼かれ苦しんでいる間の感覚と、心地良い寝床で休んでいる間の感覚との違いというように理解できる。充実した1日は、長く記憶に残るので、可能な限り自分の時間の密度を高めさせる。

大切なのは時間で、自分の生命の中の時間を構成するのは自分だけではなく、身の回りの人も含まれる。「周りの人を大切にして、毎日できるだけ感謝の気持ちを見つけて生きていけば、人生が美しくなる。」神戸の大社長から聞いた言葉だ。

時間を大切にしなければならないのに、数字で表される年齢にこだわる必要がないというのは、年齢が変えられない事実だからだ。年を取れば取るほど良いことではないと思うのであれば、誰もが日々悪くなるという事実に直面しなければならない運命にあるのに、なぜその数字を強調し続けるのか。

日本人の中には「若いね」と羨ましそうに言う人もいるが、若くない人が年齢を聞かれると、聞いた人は「若くない」と心の中で嘆いてしまうのではないか。心の中でその数字に何かネガティブな色をつけてしまうのか。誰もが日々老いていくのに、なぜこんなに苦しめ合うのか。

眼鏡をつくりに行くと年齢を聞かれ、居酒屋やバーに飲みに行くと年齢を聞かれ、新しい友達と知り合って、相手の性別もわからないうちに年齢を聞いているかもしれない……年齢は確かに何かを表しているのかもしれないが、例えば35歳を超えると、有効な就職期間が社会の歯車に大量に搾取され続けることができなくなった場合、職場での発展が制限される可能性がある。40歳を超えて独身である場合、お金がないと相手を探すのが難しくなる……これらは社会から与えられた様々な制限なのではないか。ましてやこれらは個人的なことなので、利害関係のない人同士では、常に年齢を問わなくてもいい。

今のような環境下で、各国政府は潜在的に危険なワクチンを打つように人々を扇動し、強要しているので、一部のワクチンを接種した人はあと数年或いは十数年しか生きられないかもしれないので、年齢という数字はなおさら意味がない。

もっと幻想的に言えば、時間は存在しないかもしれない。ただの幻覚だ。自分たちで作った年齢の数字にこだわる必要はないだろうか。

30歳でCEOになったのに、50歳で亡くなった人もいれば、50歳でCEOになって90歳まで生きた人もいる。オバマ大統領は55歳で引退し、トランプ大統領は70歳で大統領になった。何を焦っているのだろうか。

年齢の話はしないで、私は自分が何歳かを決められる。

《五年》(二十九)焦り

(二十九)焦り

「焦り」は、今の私の心境にぴったりだ。

まず「焦り」と言う感情で、一番記憶に残っているのは、これまでに3回ある。

一度目は大学を卒業する半年前。その頃は学校で「キャンパス採用」が盛んに行われていた。中国の「キャンパス採用」は日本の「就職活働」に相当する。日本の就職活働の競争がどれだけ激しいのか、当時私が中国で体験したキャンパス採用のレベルを超えているのか、それとも劣っているのか、私には分からない。いずれにしても、当時私は北京と天津一帯の有名な大学で奮闘し、多くの会社の採用面接を受けた。様々な形で面接を受けたが、例えば、グループで1つの話題について話し合い、会社のリクルーターは参加者のパフォーマンスを観察し、気に入った人物を選ぶ。KPMGのような全英語の筆記試験や面接を受けたこともあるが、まだ外国に行ったこともなく、外国人や外国人講師に接したこともなかった私も、なんとか耐えた。

厳しい競争の末、中国最大手の食品メーカーの本部に入社したが、これは決して就職失敗ではなかった。しかし、この半年間の就職活動の中で、「いい仕事」が見つからないこと、正確に言えば他の人の目に映る「いい仕事」が見つからないことに焦った。

何度も銀行の仕事を逃し、当時はとても苦しかったが、私の大学では、最も良い就職先の1つとして認められているのは銀行業だ。就職活働は完全に能力に関係するものではなくて、運に関係し、私はその時は少々機会を逃して、銀行の職位に就くことはできなかった。これらはすべて運命の采配だろう。もし私が当初本当にあの銀行に入って仕事をしていたならば、今頃私はここにいなかったかもしれない。

今振り返ってみると、あの時の焦りは、今では取るに足らないものだったが、あの時の私は、確かに強い焦りを感じた。就職への焦りだった。

しかし、焦りはあったものの、大学卒業を控えていたので、希望に満ちていて、大いにやる気があった。自分は十数年勉強してきたが、やっと腕を振るう時が来た。期待の気持ちが少なからぬ焦りの気持ちを覆い隠していた。

二度目の焦りは、ニュージーランドに着いて一カ月ほど経った頃、南島のホステルに泊まり、一日20ドルの部屋代を払い、あてもなく人里離れた場所で仕事を探していた時だ。

当時持っていったお金は20万円足らずで、何もかも自分でやらねばならず、自分で住む場所を探し、仕事を探した。現地の家賃も物価も知らず、勇気だけはあったが、実際に現地に着いてから、毎日の高い生活費と当てのない仕事を探しながら、心の中でどうしても焦りが発生した。

そのホステルはニュージーランド南島クロムウェルという町にあり、最も近い大都市のダニーデンからは134キロほど離れていて、自然の美しさに圧倒されるが、ここでは果樹園以外の仕事はほとんどない。オークランドからクライストチャーチを経てあそこに行ったのも、友人の紹介でさくらんぼ狩りの仕事を探しに行ったからだ。さくらんぼ狩りの仕事はあるにはあるが、12月の末になってようやく熟す。私がこのホステルに泊まった時はまだ9月の末だった。この長い四ヶ月の間、貯金を食いつぶすわけにはいかなかった。

そこで地元の牧場で「宿のお手伝いの仕事」を探して働き、旅館でも一週間「宿のお手伝いの仕事」をして、1日に節約できるお金を生活費にしようとした。

具体的にどのようにその時期を過ごしたのか、ここではあまり紹介しないが、とてもすばらしい体験で、また一生の思い出になった。

要するに、私が強く感じたのは、生存への焦りだった。

しかし焦りはあっても、1つの全く新しい国で、すべてはとても新鮮で美しくて、新しい生活への期待が、多くの焦りを覆い隠してくれた。

3回目の焦りは今だ。

2021年のスタート以来、焦りを強く感じる。

生活であれ、仕事であれ、期待していた自分の状態にまだ達していないと痛感した。いろいろと理屈はわかっていても、今の刻一刻を上手く過ごすことができない。

仕事は世間的に見て、けっこう良いと言える。とても立派で将来性のある仕事だが、まるでドバイの超富豪の家でベビーシッターをしているような気がして、彼らの金は私を少しは潤すことができるが、実際私とはあまり関係がない。私はそんなに給料を気にしているわけではないが、私が気になるのは今の自分は依然としてこのような状況に甘んじており、これまで多くの知識を学んで、将来への希望に満ち溢れていた当時の自分に対して少し申し訳ない気分がする。

高い給料をもらっても永遠に大金持ちにはならないということは、多くの中国人にとって、明白な道理である。私のWeChatの友達の中には多くの富豪がいて、彼らはサラリーマンではなく、自分で工面したり、家族から借金したりして起業している。数十億円の企業のオーナーや、上海の教育業界の企業のリーダー、父の後を継いで広東一帯で大型トラックを売っている若いボス、いつでも彼らにメッセージを送ることができる関係だ。だが、彼らの「お金」は私とはあまり関係ない。もし自分が彼らと「協力」できるほどの力がなければ、彼らに自分を助けてもらいたい、自分を引っ張ってもらいたいと思うのは、ほぼ夢物語だ。

私は依然として給料をもらう生活をしている。このような生活をしている限り、一夜にして大金持ちになることはできないと思う。しかし一方で、このような生活をしている限り、一夜にして破産することもないと思う。根本的な問題は、今は仕事が安定していても、この先どうなるのか分からないということだ。

サラリーマンの収入は自由と引き換えに得られるものであり、同時に自分がどのようなポジションに昇れ、どのようなリーダーに出会え、どのような職場環境に置かれるかは、自分で決められるものではない。

もし適材適所に人材を配置できるリーダーに出会って、自分の得意分野の仕事を与えられ、同時に会社の人間関係は比較的良好で、ここに個人の努力と誠実さが加わると、やっと職場の飛躍とグレードアップが実現して、理想的な収入を穫得することができる。さらに、現在自分のいる業界はちょうど良い発展段階で、自分もちょうど働き盛りで梁を担ぐことができるという前提も軽視できない。これらのいずれかの要因が変化すると、自分の職場での発展が阻害され、自分の思うように昇進・昇給できなくなる可能性がある。

2021年も半分が過ぎ、自分の収入源を最適化しなければならない時期だが、どこから手をつけたらいいのだろうか。焦りがまた襲ってきた。

これは3回目の焦り、お金に関する焦りだ。

私は前の2回のようにそれを解消することができると信じる。前の2回のように、焦りの後はとても良い体験になると思う。

《五年》(二十八)沖縄・高野山

(二十八)沖縄・高野山

日本に来て5年になったが、観光したことがあるのは冲縄と高野山の2か所だけだ。

旅行は私にとって、骨の髄まで刻まれているほど大好きで、特に旅行ルートを事前に計画しない旅行が大好きだ。

中国の大半を旅したことがある。東西南北、広い中国大陸、各種の大都市、辺境の小さな町、美しい田舎、少数民族の特色ある地区など、色々と訪れたことがある。10年ほど前には、搭乗時のラベルが貼られていた私のスーツケースは、黒い風合いの革の表面が白い紙で滑らかになっていた。

1年半かけてニュージーランド全土を旅した。北島の最北端から南島の最南端まで、すべて行ったことがある。その時は親指一本で行きたいところに行くことができた。ニュージーランドでは誰でもヒッチハイクに慣れているからだ。それは生活の中に溶け込む習慣のようなものだ。運転手も旅人も、これはとても自然なことだと感じている。だから、私は南島を一気に一周しただけでなく、ニュージーランド全土をヒッチハイクで旅し、とても面白い経験をたくさんした。

インドで1年間生活し、ワイルドなムンバイ、快楽に酔った夢の中のようなゴア、素朴なプネの田舎、神秘的なカンヘリ洞窟を探険した。

また、一人で東南アジア、例えばシンガポール、タイ、ベトナムなども旅行したことがある。モルディブにも二回行ったことがある。その中の一回は日帰り旅行で、もちろんスリランカにも行った。朝の光の中でセイロン紅茶を飲んだことがある。紅茶の色は赤く、湯飲みの中で液体の縁に黄金色の環を作って、芳しい香りがした。

しかし、日本に来てからは、旅行はほとんどしなかった。

ずっと仕事をしていて、休みがあまりなかった。第一に、日帰り旅行、二日間旅行では十分ではなくて、いつも遊ぶなら十日、八日、あるいは半月必要だという考えを抱いている。第二に、日本の国内旅行は海外旅行より安くない。日本の物価はよく知られているが、世界的にも高くなっている。大阪から仙台に行く旅費と宿泊費を含めて考えると、韓国に行ったり、台湾に行ったりすることができる。新鮮さを渇望している私にとって、海外に行くのは国内旅行よりずっと興味がある。第三に、日本の多くの場所は、それぞれに特色があるが、雪化粧した北海道、情熱的な沖縄、おしゃれで魅力的な神戸、パワースポットの伊勢、田園風で静かで奥ゆかしい和歌山など、しかし、同じ商店街、同じレストランの食べ物、大阪では唐揚げ、ラーメン、牛丼、九州でも唐揚げ、ラーメン、牛丼……など、似たような点があるところも多い。

全体的に言えば、好奇心の強い私には、差別化が欠けていて、旅のモチベーションは、年をとるにつれてますます体を動かすのがおっくうになる惰性に打ち勝つのに十分ではなかった。

そんな前提で、前述の沖縄と高野山だけに行ってきた。

沖縄に行ったのは、神戸の仕事を辞める前だった。2019年5月30日、神戸の自宅から三宮まで電車で行き、ポートライナーから神戸空港までの道のりは短いが、運賃は安くない。しばらくして神戸空港に着いて、小さくて精巧な空港で、清潔で綺麗に整備されていた。

飛行機が飛び立って約2時間、広々とした海、空一面に広がる青の中に、海に散りばめられた真珠のネックレスのような陸が見えてきて、ついに冲縄の姿を見ることができた。これが伝説の琉球王国か?と、興奮を抑えることができなかった。

飛行機はなだらかに那覇空港に着陸し、機内のドアを出ると、湿った熱い空気が顔を覆ってきた。モノレールに乗って空港から市街地に行くと、窓の外の異国のような風情、ココナッツの木、紅色の瑠璃瓦の家、この上ない太陽の光が目に飛び込んできた。

ホテルに着いて、荷物を置いて、食べ物を調達しに行く準備をしていた。今回選んだ宿泊先は民宿のようなホテルで、価格は高くないが、人数ごとに部屋代を徴収している。この点は多くの外国の場合と異なる。例えば中国では、ホテルの部屋代は一般的に固定されており、部屋ごとに部屋代を徴収している。日本は人数に応じて料金を徴収している。顧客により良い快適な環境とサービスを提供しているので、往々にして部屋代も相応に高くなる。

この民宿には台湾人がたくさん住んでいると、なまりを聞けばわかった。確かに、台湾から那覇までの距離は那覇から東京までの距離よりも近すぎる。

那覇の街に出て、台湾と中国大陸と日本が混在した場所に身を置いているような気がした。国際通りの両側には様々な商店が軒を連ね、観光客があふれ、活気に満ちている光景に心も興奮してくる。街頭のトロピカルドリンク屋さん、おいしそうなパイナップル、沖縄の琉球ガラス、そして一見ハラハラするマムシ酒。

ヘビ酒は、中国大陸と台湾でもよく見られて、体にとても良く、昔から蛇類が薬になる最も伝統的な薬膳酒の1つだ。中国の漢方医は、蛇類漢方薬材は血の巡りを良くし、体に大変良いと考えている。

やはり冲縄文化と中国文化には共通点が多いようだ。

最初の夜、簡単に沖縄ラーメンを食べた。海ブドウと沖縄腐乳を注文して、あっという間に中国にタイムスリップしたような気分になった。店員のサービスは相変わらず日本式だが、どこかリラックスした雰囲気があった。

次の日、那覇の市場に行った。肉、魚介類、野菜と調味料を売る店が数階建てのビルの中にたくさん入っている。日本本土では全く見られない光景だ。もしすべての人が日本語を話さなければ、ここは完全に中国の野菜市場と言っても過言ではない。

沖縄に1週間滞在し、食べたり飲んだりして、もちろん北部にも遊びに行った。北部の琉球村では、地元の国王や王妃に扮した琉球舞踊ショーに参加し、太陽の下で琉球の伝統舞踊を踊るグループが面白かった。いつでもどこでも私を驚かせてくれるトロピカルフルーツがあり、香りと鮮やかな色彩、山々の美しい造形が生気に満ちた光景を見せてくれる。

琉球村の後、沖縄美ら海水族館に行った。「冲縄の神秘を生き生きと表現する」という主旨の大型水族館で、「ちゅらうみ」は冲縄の方言で「澄んだ美しい海」を意味する。なんと美しい名前だ。中で世界最大の魚類であるジンベエザメを見た。巨大な水槽の前で深海にいるような気分になった。

北へ向かうバスの中で、自然の広大な森の海に身を突っ込んだような気がした。たくさんの植物がまるで空に広がる星のように、大地を潤していた。さまざまな高木・低木・草花は皆大地の飾りや着物である。植物の緑は私がかつて見たどんな緑よりももっと青々としていて、もっと厚くて、この深い緑の海は空気を青緑に染めて、雰囲気をも濃い緑に変えた。この深い緑の海は遠くない深い青の海と呼応して、思わず感嘆するものであり、このような美しい景色があるのは明白だった。

ガイドが車の中で冲縄の歌を歌って楽しんでいるが、その美しさとリラックスした雰囲気が相まって、車から降りるのが惜しくなる。冲縄は日本の桃源郷のような気がする。どんなに抑圧的な人が来ても、悪い気持ちはいくらでも解き放たれるだろう。

沖縄に行けば、もちろん「首里城」には必ず行くが、私が行った時は、まだ「首里城大火災」事件は起きていなかったので、琉球王国の政治、外交、文化の中心地として知られていた琉球式の城を見ることができた。それは中国と日本の築城文化の独特な建築様式と高い石積み技術を融合してできており、非常に高い文化と歴史の価値を持っている。形は壮大で、色は鮮やかで、明らかに日本本土の建築物とは色合いが違う。

沖縄を離れる前に離島に行ってみた。「ナガンヌ島」という無人島だった。晴れたり曇ったりしていて、乳白色の軽い霧が空気中に充満し、燃えるような匂いを漂わせていた。薄暗く、輪郭がぼんやりした雲片が、青々とした空にのんびりと浮かんでいた。

日差しはあまり熱くなく、当日も日焼け止めを塗らず、青い海と青い空の下で思う存分何時間も遊んだ。無人島の周りを何周か歩いてみた。黄金色の砂浜には、たくさんのカラフルな貝殻が静かに横たわっていた。砂浜の砂はふわふわしていて、踏むと布団の上にいるようで、とても気持ちがいい。

私は泳げない。正確に言えば、子供の頃、川で独学で泳ぐことを覚えた。その後、ずっと水に入ったことがなかったので、泳ぐことを忘れてしまった。こんなきれいな海で泳がないのは本当にもったいない。

神戸に帰ってくると、翌日の午後、全身の皮膚が熱くなり、かゆみ、ひどい日焼けをした。医者に診てもらい、薬を処方してもらって、2、3週間痛みとかゆみに振り回されてやっと回復したが、体の皮膚は蛇のように脱落して、痛みに耐えられないだけでなく、自分でも吐き気がした。

しかし、情熱的で爽快な沖縄は忘れられない素敵な思い出を残してくれた。日本にものんびりしているところがあるのかと思いにふけった。ああ、もちろん、正確には、かつての琉球王国だが。

2020年11月末、高野山に行ってきた。

秋晴れで、風が穏やかで、涼しかった。私の大好きな季節に清らかで神聖な場所に行くことは、長い思い出に値する体験だ。

1200年以上の歴史を持つ仏法の聖地として、高野山には寺院が林立し、仏教の街、浄土で、僧侶たちの清貧な生活を体験することができる。高野山の宿坊に宿泊するのは修行で、私たちも宿泊して、清々しさ、心の安らぎ、お坊さんたちの食事、繊細で美味しい精進料理を味わった。

朝はお坊さんたちとお経を読み、夜は広い湯船につかるという修養の旅だった。お風呂といえば私が観察したものを取り上げたい。ほとんどの日本人はお風呂に入る習慣がある。多くの日本人の家庭では、お風呂に入る時、家族全員で同じ湯船の水を使う。これは私が以前に思ってもいなかったことで、私には到底受け入れられない。

個人的には自分以外の人の毛やフケは汚れていると思っているからだ。このように、特定の生活習慣を持っているグループの常識は、異なる文化圏の人の目には異なって見えることがわかる。私は3日間シャワーを浴びなくても平気だが、他人と一緒に風呂の水を共有するのは汚いと感じる。

私の経験では、どの国の人も毎日シャワーをするわけではなく、特に寒い地方の冬は毎日シャワーをしない人が多いということだ。多くの日本人は基本的に毎日シャワーを浴びる。「シャワー」だけでなく、お風呂にも入る。これはもちろん日本の豊富な水資源のおかげで、とても褒められるべきことだ。毎日体の細菌や汚れを洗い落とすのは体にとても良いことだ。

日本の水資源の豊かさといえば、私が観察した他の現象の1つも取り上げなければならない。多くの日本人は食後に食器を洗う時、蛇口を開けて水を流したまま、食器と箸を洗うのが普通だ。これは私の目には水を浪費しているように見える。鉢に水を貯めて、食器と箸を鉢の中で洗った後に、水で一回洗い流せばいいのではないだろうか。中国をはじめ多くの国では、蛇口を開けたまま食器を洗う行為が非難されるだろう。

宿泊先のお風呂は天然温泉ではないが、天然温泉に勝るとも劣らないものだった。お風呂に入ってから伝統的な和室に入ると、畳で寝る。部屋にはテレビ、金庫、テーブルなどの基本的な家具が備え付けられている。窓の外にはとても古い木があり、高野山の寺院のように古い感じがする。

いろいろなお寺に行って、織田信長豊臣秀吉など有名な人のお墓を見たことも印象的だった。中国の歴史上の人物の墓地の多くは、「文化大革命」で壊わされて、一部の英雄の死体は掘り出され、焼却された。日本の著名人は幸運にも、亡くなってからもずっと安心してそこに眠ることができ、誰も墓を動かさないし、墓を壊すような「政治運動」も起こらない。これにはとても敬服させられた。まるである種の畏敬の念を見る民族精神だ。

高野山で、私が一番震撼したのは「弘法大師」の御廟だった。人々は空海が聖地高野山に今も生きて大衆を救い続けていると信じている。立ち上る線香の煙の中で、ろうそくの灯火が揺れ、澄んだ山の冷気が邪気を洗い去っていく。

心を洗う旅だった。高野山の秋は本当にきれいで、空気が少しひんやりしていて、その涼しさの中に自然の匂い、お寺の匂い、歴史の匂いがいっぱいだった。

世の中の万事万物はすべてにその美しさがあって、すべてにそのハイライトがあって、感情、心持ち、心情にも関係してくる。時には、ある瞬間、極限まで喜んで、あるいはまた谷底の深淵に落ちることもあるが、大抵の場合は悲しくも嬉しくもない。

沖縄と高野山とは、まるで私の性格が両極端であるのを表しているかのように、一つは「火」であり、もう一つは「水」である。

奇妙な偶然だった。

《五年》(二十七)日本人はLineメッセージに積極的に返信しないのか?

(二十七)日本人はLineメッセージに積極的に返信しないのか?

日本に来て初めてLineの存在を知り、高松での1年半はほとんど使っていなかったので、Lineの友達があまりいなかった。当時使っていた携帯電話がガラケーだったこと、仕事中に使う機会がなかったこと、帰宅してからタブレットしか使えなかったことなどが挙げられる。

その後、神戸に行ってからLineを本格的に使用するようになった。これに対応する中国のアプリはWeChatであるが、WeChatはLineよりも機能は多いが、ほぼ同じである。

両者の違いが最も大きいのは、チャットのパターンだろう。「チャットモード」という言葉は難しく聞こえるが、より簡明な表現で言えば、「相手からの返信の速さ」ということだ。

大阪に来てLineの友達が増えてきて、さらにコロナの関係で友人と会う機会が減り、メッセージを送る機会が増えてきたことで、少しずつ気づいた現象だ。もちろん、ビッグデータから調査したわけではない。サンプルが小さすぎて、全体を推測することができないので、偏りがあるかもしれない。しかし、結局私が書いているのは科学的な内容ではなく、すべて私の生活の中での観察に基づいているので、自分が書いた現象が正しいと100%肯定することはない。

WeChatの友達はほとんどが中国の友達で、中国人とのチャットは普通すぐに返事が返って来る。相手が本当に忙しいか、相手が見落としていない限り、普通は即時に返事をする。遅い場合はせいぜい30分か数時間以内に返事する。いくら遅くても、その日寝る前や翌日までには返事がある。

Lineの多くの日本人の友人は、相手にメッセージを送った後、一両日後、或いは数日後に返事をしてくることがよくある。このようなことは少数ではなく、多くの人に見られる現象であり、非常に面白く、考える価値のある現象だと思う。

何人かの日本人の友人に、友人から送られてきたLineのメッセージになぜすぐに返事をしないのか聞いたことがある。その時点ではどう答えたらいいのか分からず、考える過程が必要だという回答があった。返事をすると、相手から更に返事が返ってくるのが怖いと答える人もいたが、これでは時間だけでなくエネルギーも必要である。忙しいので、夜や翌日に返事をしようと思っても、返事を忘れてしまうことが多いという回答もあった。

LineとWeChatのメッセージの大きな違いは、Lineのメッセージには既読機能があるのに対し、WeChatにはないという点だ。Lineのメッセージが送られた後、もし一週間とすれば、半月も未読状態だったら、相手に何が起こったか分からないと心配になる。自分の時間を邪魔されたくない多くの日本人の性格を考えると、相手の状態がどうなっているのかと心配したり、相手にまたメッセージを送ろうかと悩んだり、「しつこい人」と思われたりするのではないかと躊躇したりして、メッセージを送るのに心理的な苦労をしている。

個人的には、アドレス帳のすべての人にメッセージを送るわけではない。相手を友達にしてLineのメッセージを送っているので、無視されているという感覚は実は良くない。友達のメッセージをわざと返さず、数日間待たせるのは、最低ではないが、決してクールでもない。

多くの日本人は孤独を感じると言っているが、友人からのLineメッセージに自分から積極的に返信することから始めることで、孤独感が大幅に改善されるのではないかと思う。

人と絆を築くことは時に悩みをもたらし、時に温かさをもたらす。傷つくことを恐れて絆を回避しようとすると、一生、たくさんの素敵な瞬間やたくさんの幸せなことを見逃してしまうことになるはずだ。

迅速にメッセージに返信するのが好きではない人は、少しずつでも早めにLineメッセージに返信しても、損にはならないと思う。Lineだけでなく、WeChat、WhatAPP、Kakaoなど様々なコミュニケーションツールのメッセージも含まれている。しかし、誰にでも自分の習慣を維持する権利があることは言うまでもない。

ある民族の全体的な経験や価値体系に基づいて、自分が考えていたものとはまったく異なる考え方で行動するようになったときには、その民族の習慣や価値が何であるかを知る機会が与えられなければならない。ある行動指針が必ずしも悪いものではなく、自分が知っているものではないことがわかるかもしれない。

もちろん、もし友人たちが私のメッセージのみに返事をしなかったならば、それは私個人の問題かもしれない。これからも、自分的には更にチャットの技術を改善していきたい。

或いは、ある友人はわざと私のメッセージに返信しないで、私の興味をかき立てて、私に相手に対してずっと期待を持たせて、それによって更に多くの感情上の依存を発生させる。或いは、ある友人たちは、その時点でメッセージに返信する動機になり得る情緒的価値を私が彼らに与えることができないと感じて、怠惰に無視することを選択しているのかもしれない。もちろん、この2つのケースではない方がいい。

《五年》(二十六)外国人としての「気まずさ」

(二十六)外国人としての「気まずさ」

私はすでに日本の居住証を手に入れて、長い間日本で生活して仕事をすることができる。私が口をきかない限り、自分のなまりの強い日本語を口にしない限り、外国人だとは誰も気づけない。

しかし、バーでも居酒屋でも郵便局でも、私が口を開くたびに、最初の言葉を言い終わらないうちに、自分が「外国人」であることがばれてしまい、往々にして多くの人が「異様な眼差し」を向けてくる。「異様な眼差し」をけなす言葉として言っているわけではなく、単に相手の驚き、或いはおそらくサプライズを表しているだけだ。

しかしいったん外国人と認定されると、相手の心理の中の予想と異なって、彼らは私の日本語は小学校三年生のレベルしかないと判断し、当然私の他の知識においても、彼らと同じレベルに置いて比較する必要がないと思っているようで、相手の心理の中の予想が変化していくことを感じる。

この事実は私を落胆させることが多い。

外国人だと知られると、「いつか日本を離れるのではないか。」と外国人観光客と同一視する人が多いようだ。「生活習慣は私たちと違うでしょう?」、「考え方も私たちとは違うのではないでしょうか?」一部の人は甚だしきに至ってはこのような考えを生んで、日本人同士との間で話すことができないような言葉も、私となら話すことができる。例えば、比較的露骨な、あるいは日本の文化で比較的自制しないといけないような、「空気を読む」ことができない言葉を使用することも、結局彼らは私を「外国人」だと思っているので、基準が異なると思って、そんなに気を遣うこともなくなっているのだ。

これは私が喜ぶべきことではないか。

訛りは私が「外国人」であることを必ず决定付けて、生活の中で、職場でも必然的に多くの違いを生む。

企業によっては、採用の際に、外国人であることを考慮しない場合もあるが、外国人はなんとなく「違う」と思っているか、或いは信頼できないと思っている。人柄が頼もしくても、客観的に見ると、外国人はいつでも辞める可能性があると思っている。例えば、遠く離れた国にいる両親の病気や、その他の要因など、要するに企業が従業員を服従させ、便利な道具として使うのに不利である。企業は不確実性を必要としない。能力の非常に高い不確実性に満ちた外国籍の従業員は、往々にして彼らの目には勤勉だが、資質が一般的な日本人の従業員より劣っている。

ビザを申請できる職務を提供すれば、在日外国人は会社を担保に就労ビザを申請することができる。これは日本に残って働きたい外国人にとって非常に魅力的である。給料の高さはそれほど重要ではなく、合法的に日本に滞在できる就労ビザを持つことが最も重要である。したがって、就労ビザを提供できる会社であれば、外国人が集まらないという心配はない。

外国人社員を採用しても、多くの会社は彼らを二カ国語や多国語ができる一つのツールとして使っているだけで、きちんと育成したり昇格させたりすることは考えていない。最低賃金で外国人従業員を雇うことができるので、もし外国人従業員が賃金が低いので辞めたいと言ったら、いつでも辞めさせる。なぜなら、就職を待っている外国人は多いからだ。

もちろん、日本人の多くは外国人に対して友好的で、外国人だからといって悪意を持たれることは一切なく、むしろ外国人であるから、注意すべきマナーや敬語の使い方に対しては寛大に許されている。

一部の日本人は非友好的ではなく、外国人との接触を恐れている。このような恐れは全く必要ない。むしろ外国人と接することは、日本の仲間との付き合いよりも自由であることが多いのではないか。多くの無駄を省くことができるからだ。例えば、必要のない忖度を節約することができる。相手が心の中で何を考えているかあまり考慮しなくてもいいので、相手の気持ちを慮る時間と精力はすべて節約することができる。相手から「失礼」や「空気を読む」ことができないと安易に判断されることもない。なにしろ相手は外国人だからだ。時には「違うこと」は面白さを表している。必要のない「恐れ」を忘れて、「怖い」という言葉を消してしまえば、思いがけない喜びを得ることができる。

外国人と接することを嫌がる人も一部にはいるのだが、そのような人は、他のライフスタイルからの知識が自分たちの文化への愛を強める可能性があることを理解していないのかもしれない。

そんな現実の中で、さまざまな不便や不利益があっても、小さな過ちを犯した時の言い訳になるような「特権」があっても、気にするべきではない。自分としては、いわゆる社会的なアイデンティティに縛られることなく、立派な優秀な人間になれば十分だ。

《五年》(二十五)子どもがいないと、人生は円満ではないか?

(二十五)子どもがいないと、人生は円満ではないか?

コロナが始まってからのこの1年余り、私とMikuの間にも喧嘩が多くなった。コロナのために一緒にいる時間が増えて喧嘩が増えたわけではなく、この1、2年の間に子供が欲しいかどうかについて、私たちの間に多くの意見の相違が生じたからだ。

さまざまな文明形態の中で、中華文明は最も家庭を重視しているかもしれない。「家国天下」という言葉があって、「家」は小さいが、「国」と「天下」の基本的な構成要素で、家がなければ国にはならない。中国人の倫理観念は家族に基づいているが、これも中国人の家族観念が重い原因の一つである。

儒教の学説では、宗法社会では、人には「五倫」、すなわち「君臣」、「親子」、「夫婦」、「兄弟」、「友人」の五つの関係があった。この「五倫」には,「親子」,「夫婦」、「兄弟」の3つの家族関係がある。他の二つは、君臣関係は親子関係、友人関係は兄弟関係に当てはまる。つまり、中国の数千年の封建社会における「五倫」の徳の基礎は家族関係であった。

中国人が子供を大切にするのは、極めて深い歴史文化的な要因があると言うべきである。中国古来、「不孝には三つあり、子孫のないことが一番深刻なこと」であり、家系を継ぐことができないことが最も不孝な行為である。子孫の繁栄は一族の血筋の継続であると同時に、先祖を輝かせる基礎でもあった。昔から今まで、帝王の家であろうと、底辺の庶民であろうと、子供はいつも多ければ多いほどいい。特に男の子は、子が親の業を継ぐ梁である。

現代でも大多数の中国人が子供を重視するのは、骨髄に深く入り込む文化的な要因のほかに、中国の現在の発展レベルの下で、特に地域発展の不均衡の状況の下で、古くからの慣習がまだ深刻な地域では、直面せざるを得ない現実的な理由もある。

(一)子供は親が実現できなかった人生の理想を実現する担い手である。親は、時代的な制約があったりして、自分は大学の教育を受けられなかった。自分が歩んできた回り道を子どもに繰り返えさせるのではなく、子どもは最高の教育を受け、将来は出世して、親を養わなければならない。

(二)子供は親と人の比較のベンチマークである。一部の中国人の現在の満足度は大抵の場合、比較して得たものであり、常にどこでも他人と比較してこそ、自分の満足度が満たされる。

(三)子どもは家族の運命を変えるチップかもしれない。田舎から町へ、内陸の辺境地域から沿海の発展都市へ、一家が貧困から脱して豊かになるためには、子供の「鯉の滝登り」を当てにしなければならない。

中華文化の下で育った私が、どんなに西洋思想の洗礼を受けても、根底には子供がいることを渇望しているのは、以上のすべての不条理な理由からではない。

私は中国語、英語、日本語、Mikuは日本語、英語、ロシア語をマスターしている。私たちはそれぞれ世界各地の色々な国に住んだことがある。もし子供ができたら、彼にいろいろな言語を教えたり、いろいろな文化を体験させたり、世界各地に連れて行ったりして、私たちが与えることができるすべての愛を彼に与えることは、どんなにすばらしいことだろう。コロナが流行して以来、我々は真剣にこの問題を検討した。

子供を大切にする中国では、親と子供の間に独特の関係が生まれている。非常に緊密な依存関係である。子供は親に物質的に依存し、親は子供に精神的に依存する。中国の親と子の間は一生骨肉がつながり、血がつながっている関係だ。親子の関係だけでなく、血縁と家族関係を重視するのは中華民族の文化伝統であり、人々は人間関係の中で最も安定している要素は血縁関係であると信じている。誰もが「血は水より濃い」という伝統的な観念を持っている。中国人の家族観念は非常に強い。ここでの「家族」は自分の核家族だけでなく、大家族、例えば兄弟姉妹の間、更にはいとこ同士の間を指す。

逆に日本を見ると、私が観察してきた日本の家族関係はあまり緊密ではなく、時に淡々としたもので、少し冷たく感じた。身内同士の絆は、自分に愛を感じるだけでなく、大きな力を与えてくれるのではないか。

「人の完全な死は、その人がすべての人から忘れ去られた瞬間である」という言葉を聞いたことがある。誰からも忘れ去られた老人を想像するのは、なんだか凄惨極まりないことだ。日本社会の最期まで子どもが付き添わない「孤独死」は命にとって過酷なことだと思えてならない。

多くの中国人の観念の中で、もし一生子供がいなければ、この一生はどんなに成功しても金持ちであっても、人生は円満ではない。一定の過激な思想の人の目にさえ失敗しているように見えて、かわいそうに見えて、同情される。中国の民間でよくこのような話を耳にする。「あの人はとても成功しているが、残念ながら子供がいなくて、何もうらやましいことはない。」又は、「あの人はとても成功しているが、残念ながら子供がいなくて、このような人生の何が良いことがあるものか。」

子どもがいなければ、すべてが否定されてしまう。日本では子どもがいないことも悪いことではなさそうだ。

私は世界の様々な形の家族を見てきたが、それぞれの家族の存在を理解し、尊重し、彼らの存在権を切実に擁護している。

私は異なる観念を受け入れることができるが、私自身の持っているある観念を保持する権利も、もちろんある。