《五年》(二十六)外国人としての「気まずさ」

(二十六)外国人としての「気まずさ」

私はすでに日本の居住証を手に入れて、長い間日本で生活して仕事をすることができる。私が口をきかない限り、自分のなまりの強い日本語を口にしない限り、外国人だとは誰も気づけない。

しかし、バーでも居酒屋でも郵便局でも、私が口を開くたびに、最初の言葉を言い終わらないうちに、自分が「外国人」であることがばれてしまい、往々にして多くの人が「異様な眼差し」を向けてくる。「異様な眼差し」をけなす言葉として言っているわけではなく、単に相手の驚き、或いはおそらくサプライズを表しているだけだ。

しかしいったん外国人と認定されると、相手の心理の中の予想と異なって、彼らは私の日本語は小学校三年生のレベルしかないと判断し、当然私の他の知識においても、彼らと同じレベルに置いて比較する必要がないと思っているようで、相手の心理の中の予想が変化していくことを感じる。

この事実は私を落胆させることが多い。

外国人だと知られると、「いつか日本を離れるのではないか。」と外国人観光客と同一視する人が多いようだ。「生活習慣は私たちと違うでしょう?」、「考え方も私たちとは違うのではないでしょうか?」一部の人は甚だしきに至ってはこのような考えを生んで、日本人同士との間で話すことができないような言葉も、私となら話すことができる。例えば、比較的露骨な、あるいは日本の文化で比較的自制しないといけないような、「空気を読む」ことができない言葉を使用することも、結局彼らは私を「外国人」だと思っているので、基準が異なると思って、そんなに気を遣うこともなくなっているのだ。

これは私が喜ぶべきことではないか。

訛りは私が「外国人」であることを必ず决定付けて、生活の中で、職場でも必然的に多くの違いを生む。

企業によっては、採用の際に、外国人であることを考慮しない場合もあるが、外国人はなんとなく「違う」と思っているか、或いは信頼できないと思っている。人柄が頼もしくても、客観的に見ると、外国人はいつでも辞める可能性があると思っている。例えば、遠く離れた国にいる両親の病気や、その他の要因など、要するに企業が従業員を服従させ、便利な道具として使うのに不利である。企業は不確実性を必要としない。能力の非常に高い不確実性に満ちた外国籍の従業員は、往々にして彼らの目には勤勉だが、資質が一般的な日本人の従業員より劣っている。

ビザを申請できる職務を提供すれば、在日外国人は会社を担保に就労ビザを申請することができる。これは日本に残って働きたい外国人にとって非常に魅力的である。給料の高さはそれほど重要ではなく、合法的に日本に滞在できる就労ビザを持つことが最も重要である。したがって、就労ビザを提供できる会社であれば、外国人が集まらないという心配はない。

外国人社員を採用しても、多くの会社は彼らを二カ国語や多国語ができる一つのツールとして使っているだけで、きちんと育成したり昇格させたりすることは考えていない。最低賃金で外国人従業員を雇うことができるので、もし外国人従業員が賃金が低いので辞めたいと言ったら、いつでも辞めさせる。なぜなら、就職を待っている外国人は多いからだ。

もちろん、日本人の多くは外国人に対して友好的で、外国人だからといって悪意を持たれることは一切なく、むしろ外国人であるから、注意すべきマナーや敬語の使い方に対しては寛大に許されている。

一部の日本人は非友好的ではなく、外国人との接触を恐れている。このような恐れは全く必要ない。むしろ外国人と接することは、日本の仲間との付き合いよりも自由であることが多いのではないか。多くの無駄を省くことができるからだ。例えば、必要のない忖度を節約することができる。相手が心の中で何を考えているかあまり考慮しなくてもいいので、相手の気持ちを慮る時間と精力はすべて節約することができる。相手から「失礼」や「空気を読む」ことができないと安易に判断されることもない。なにしろ相手は外国人だからだ。時には「違うこと」は面白さを表している。必要のない「恐れ」を忘れて、「怖い」という言葉を消してしまえば、思いがけない喜びを得ることができる。

外国人と接することを嫌がる人も一部にはいるのだが、そのような人は、他のライフスタイルからの知識が自分たちの文化への愛を強める可能性があることを理解していないのかもしれない。

そんな現実の中で、さまざまな不便や不利益があっても、小さな過ちを犯した時の言い訳になるような「特権」があっても、気にするべきではない。自分としては、いわゆる社会的なアイデンティティに縛られることなく、立派な優秀な人間になれば十分だ。