《五年》(十一)神戸での面接

(十一)神戸での面接

2018年1月17日、高松空港勤務最終日。

穏やかな一日で、みんなに別れを告げると、名残惜しかった。いずれにしても1年半近く働いた場所で、しかも日本での初仕事の場所で、笑いも愚痴もあり、楽しみもあり苦労もあった。

2017年12月、ネットで神戸にある会社を探したが、現在欠員状態の本社直属のブランディング部の募集を見つけた。

神戸といえば、避けられない話題の一つは「神戸牛」である。世界第一の貴重な牛肉と言われているが、すでに世界中で偽物が出回っており、世界各地の人々が神戸に来ているのは、神戸牛を一口味わうためだけであると言っても過言ではない。

この会社のブランディング部には、主に外国人向けの相談センターがあり、神戸の観光地をPRしながら、自社の神戸ビーフレストランを勧め、相談に来た外国人観光客と気軽に会話しながら自社のレストランを訪れさせようとしている。そのためには、本場の中国語と英語を話せるスタッフが必要とされている。

日本に来たばかりの時、上海では一年ビザを取っていたので、高松でビザを更新する時、もし三年ビザが取れたら、高松市に落ち着いて、日本の居住許可を申請したいと思っていた。残念ながら計画は失敗し、更新後も一年ビザのままだったので、チャンスを逃さず神戸に向かった。

神戸は国際的な港街であり、高松よりも仕事の機会が多い。しかも、高松でビザを更新した時、審査官の表情によっては、来年も一年ビザになるような気がした。そこで,いっそ陣地を移動すれば良いのではないかと思った。

2018年1月23日、四国バス会社のバスで神戸市の三宮にやってきた。バスを降りて、歩いて面接に行った会社は、元町商店街のビルの四階にオフィスがあり、神戸中華街と壁一つ隔てていた。私は階段を四階まで登ってドアをノックすると、背が高く、長い髪のストールをした女性がドアを開けた。私が来意を説明すると、招き入れ彼女は私を部屋にた。私は長い会議のテーブルのそばに座ってしばらく待っていた。

約10分後、かくしゃくとした小柄で精悍な男性がやってきた。面接、採用、そしてその後直属の上司になった川田さんだった。川田さんはもともとシェフで、若い頃にレストランを経営し、東京でも就職したことがあるが、数年前に神戸に帰ってきて、この神戸牛の会社に勤め、神戸牛ブランドのプロモーションやビジネスパートナーとの商談を担当している。

彼はまず私に自己紹介をさせて、それから一つ一つ私の前の仕事の退職理由と今後のキャリアプランを聞いた。この部分は多くの面接官と同じだった。仕事の内容について、私は自発的に彼にいくつか質問をし、彼は熱心に私に説明してくれた。彼はコンピュータを持ってきて、PPTを開いて、一部始終、弁舌軽やかに述べた。

最初、私は作り笑いを浮かべながら、しきりにうなずいて相槌を打ち、礼儀を示した。驚くことに、彼はとめどなく、堂々と2時間余り話したので、私の頭はめまいがしてきて、笑顔も硬くなって、眠気がひっそりと襲ってきた。しかしこれは結局面接で、私は絶えず自分に眠くならないように注意して、背筋を伸ばして、我慢した。

川田さんは私の給料の希望と私の英語名の由来を聞いた。英語名は自分が「勝手」に選んだと答えようと思ったが、「勝手」は日本語で表現すると「無作為」であったが、実際はその時頭の中で浮かんだ「不細工」と言ってしまった。発音は似ていても、意味は大きく異なる。口を開くと、屏風のうしろに座って、ドアを開けてくれた女の人が、「うわー」と大笑いした。私自身、どこかおかしいような気がして、笑ってしまった。

歓声と笑い声の中で面接は終わったが、川田さんは面接結果をメールで知らせてくれると話した。次の日、昼まで寝て、起きてメールボックスを開くと、この会社からの採用メールがあり、給与待遇、職務、入社に必要な資料などが数行で簡単に紹介されていた。

仕事が決まったら、家を借りて引っ越すだけだ。

中国では、家を借りるには、身分証明書1枚、敷金を払って、二言三言で済ませるだけだ。だが日本では、家を借りるには手続きが煩雑なだけでなく、かなり時間と労力がかかるし、「審査」を経なければならないことがわかった。