《五年》(八)仕事のルーティーン

(八)仕事のルーティー

会社は私を正社員のつもりで雇ってくれたので、レストランでのすべての仕事をマスターしなければならない。小型空港なので、時間帯によって繁忙度が異なる。季節、祝日、フライトの搭乗率も関係している。

当時、高松空港には東京、冲縄、上海、ソウル、台北、香港までの路線があった。大体、金、日、月、水曜日が忙しく、火と木曜日が暇で、土曜日が一番のんびりしていた。

レストランは朝6時から夜20時まで営業している。大体の状况は、朝6時に電気をつけ、レジ、コーヒーメーカー、アイスクリームメーカーを起動し、その日の新聞とポットの水を客のセルフサービスコーナーに入れ、それからパイロットと乗務員たちの朝食を準備する。すべてのコップに水を満たし、氷を入れ、コーヒーメーカーにミルクを注ぐと、レジ精算が始まる。毎日30万円の現金がレジに常備されていて、朝に一度金額を確認して間違いの有無を記録する必要がある。

6時30分頃に開門して客を迎える。パイロットと乗務員は6時30分から6時50分までの間に来る。一番早い7時40分の便に乗る客も次々と来る。朝食時間は11時までだ。

朝食の時間帯には、空港で働く一人の高齢者が食事に来ることがよくある。彼に対して、会社は特別に割引を与えていた。約六、七百円で都心の一、二千円のものを食べることができる。私も朝食の食べ物が大好きで、特にサーモンソテーや牛丼に温かい味噌汁が添えられている定食は、寝ぼけまなこの朝食だが、特に冬は本当に幸せな気分になる。

12時から13時まではランチタイムだ。この時、空港のスタッフの大部分は食事に来て、店では空港スタッフのために特別に従業員用の食事を用意していた。1人前756円、4種類のセットメニューを選べ、四半期ごとにメニューを変える。従業員は無料の飲み物と食後のデザートを楽しむことができる。彼らはセット以外の料理を注文すると、1人前200円の割引を受けることができる。

ランチタイムの豚丼は私のお気に入りで、食べるだけでなく作ることももちろんできる。青花磁風のボウルに入っていて、蓋をしていると、濃厚な味が中に閉じこめられている。蓋を開けた瞬間の芳醇な香りと、その瞬間に目に飛び込んで来る「驚き感」は、すべて豚丼がもたらした楽しみだ。

午後3時から5時までは「ドリンクタイム」だ。この時間帯の客はコーヒーやココア、ジュースを注文し、同僚や親戚や友人と午後いっぱい座って話す。コーヒーを注文するとき、客はコーヒーの名前だけを言うのが普通だが、店員は「ホットですか、アイスですか」と尋ねる必要がある。聞かないと、気候によって客にとってホットが良いかアイスが良いかを判断するのは、往々にして自分の判断では間違ってしまうからだ。

この時間帯の中で、私の最も好きな飲み物はココアだ。濃厚な熱いココアは冬にはもちろん完璧で気分を和らげる絶品だが、夏にもまた格別の体験をもたらすことができる。

5時を過ぎて、夕食の時間に入る。ディナーの時間帯の客は、定食やビールとあわせて小皿を注文するのが一般的だ、店員はテーブルの上のナプキンや箸、砂糖や牛乳などを頻繁に補充している。忙しい時、台所の食材は急速に枯渇し、料理人はどのメニューはもう注文できないとか、どの料理が何人分残っているかを教えてくれる。

このように、注文したい料理がなくなってしまっていた時、客は怒りながら、自分では答えがわかっていても店員に「どうして売り切れたの?」などの質問をしたりすることが多かった。

午後7時、新規客の入場をお断りし、7時15分、ラストオーダの有無を尋ねる。すべての客が店を出たら、床を掃除し、清潔にして、ナプキン、箸、牛乳、シロップ、コーヒー豆を補充する。コーヒーメーカー、アイスクリームメーカー、コップ、フォーク、スプーンを元の位置に戻すか、あるべき位置に置き、最後に翌日パイロットや乗務員たちが注文した飲み物のコップとセットトレイを用意する。

レジで精算が終わったら、その日の収入を金庫に入れて、一日の仕事が終わる。

作業中は、常にコーヒーメーカーで搾り残したコーヒー豆の糟を掃除したり、ソースやゴマ、海苔を補充したり、台所に漬物や味噌汁のベース、じゃこ天などを用意したりするほか、アイスクリームメーカーを数時間おきに動かしたりするなどの些細な作業もあった。

台所に入る最初のステップは手袋と帽子を着用することだ。もし食べ物の中に髪の毛が落ちたら、それは食べ物がまずいという結果よりずっと深刻な結果をもたらす。客はその場で怒るだけでなく、空港事務所に苦情を申し立てる。1、2週間後、空港事務所のスタッフが詳細を尋問しに来る。

台所は食材を絶えず補充し、納入業者から提供された食材を仕分け、解凍、切り身にして味付けをしたり、野菜を千切りにして漬け込んだりして、常にメニューの料理が注文されると出てくる状態を保つ必要がある。各種冷凍食材の賞味期限はこまめにチェックしなければならず、期限切れになると捨てたり、無料で従業員に食べさせたりするしかない。

台所の掃除も大切だ。お客さんが少ないときは、台所のシンクやゴミ箱、ポテトフライの入ったビニール袋、刃物、ソースの入った瓶や缶を掃除する。

このほか、週に数回の「油交換」は力仕事で、フライドチキン用の油は定期的に交換する必要があり、十数キロのドラム缶を高く持ち上げて数分間空中にとどまらせる。

厨房の油は、食の安全性に基づいて定期的に交換されていなくても、他に誰にも知られることはないが、このレストランのほとんどの人は、ルールを厳守することを自覚していた。中国のレストランで地溝油が使われていることと比較すると、職業に対する畏敬の念、客に対する責任の念に心から感心せずにはいられない。

このレストランで日本のサービスの一端を垣間見ることができ、誠に感心している。従業員一人一人の自律性が高く、責任感とサービス意識が溢れていた。私の考えでは、時に「過剰サービス」の疑いがあるが、それこそが、日本がグローバルサービスの最高の称号を勝ち取ることになった所以ではないだろうか。

高松の私にとっての意味は、日本社会への扉であり、私はそれを押し開けて、いつの間にか日本の社会へ入ってしまった。このレストランは私にとっての意味は、日本の職場への扉で、私はそれを押し開けて入り、日本の職場の行働習慣と従業員の風貌品性を理解し始めた。

《五年》(七)労災

(七)労災

2016年8月23日、火曜日、晴れ。

香港行きの最終便は満席だった。レストランも満席だった。大勢の香港の客がたくさんの定食を注文した。一組が食べ終わったばかりで、椅子の上にはまだ体温の余熱が残っていた。もう一組の客が入口で首を長くして待っていたが、待ちきれずに入ってきた。

私は台所に配置され、汚れた皿、コップ、使用済みの箸が次々と運ばれてきた。とんかつ定食の皿の上には客の残したサラダが垂れ下がって網状の針金のトレーに落ちていて、黄色いサラダのソースが子供の濃い鼻水のようだった。コップの中には口を拭いたティッシュが浮いており、使用した割り箸は餓死者のような光景で、目を覆うものがあった。

店は、香港の客の広東語と店員たちの日本語が飛び交う混雑ぶりだった。台所の皿洗いの一般的な流れは、ロビーの人がトレーと箸、お椀、コップを台所に持ってくると、「お願いします。」と言いながらトレーを置いて、台所の人がステンレス製のスプーンを取り出して鉄のふるいに入れ、ティッシュや使用済み割り箸、食べ残した食べ物をゴミ箱に注ぐというものだ。

汚れた皿、汚れたお椀はトレーから食器洗浄槽に運ばれ、水で一度洗浄された後、自働洗浄器のプラスチック容器に入れられる。容器が満杯になったら自働洗浄器の下に進め、3〜5分間で洗浄、高温消毒、乾燥の3段階を自働で完了した後、自働洗浄器の蓋を開け、台所用とホール用の容器を手で仕分ける。

高温で熱されたばかりの器がプラスチック手袋の油に触れ、熱くて滑りやすい状况の下で、体がよろめいた瞬間、カレーライスの入った船形の磁器の碗が私の手からすべり落ちて、その落ちていく過程で横の戸棚にぶつかって欠けた。この時私は思わず手でそれを受けようとしたが、結局受けられなかっただけでなく、かえって右手の親指に深い傷がついて、一瞬痛みを感じた。

その音を聞いた竹内さんは、「大丈夫ですか?」と聞いた。私は「大丈夫」と言った。その時、彼は大声で「たくさんの血が……」と叫んだ。私が見ると、案の定、切り裂かれた青いゴム手袋の下で、露出した親指の半分から、真っ赤な液体が傷口に押し出されていた。その量はますます多くなって、爪の上に流れて、手の甲の上、手のひら、糸の切れた血色の玉が地面に滑り落ちて、一滴、二滴、三滴……やがて地面は赤くなった。

血は温かいが,心は冷たくなった。

「ほんの少しの皮の外傷で、大したことはないだろう」と思いながら、水槽に向かった。水道水で長い間洗い流していたが、もう一度見ると、血が湧き水のように止まらずに湧き出ていた。私は必死に親指の付け根を絞めた。絶えず滴り落ちる血が、台所の床に真珠のネックレスのような形を描いていた。

そこに小林さんが入ってきて、慌てた表情で大丈夫かと聞いてきて、絆創膏を取り出し、血流を無理やり封じようとしたが、私は未熟な日本語で退勤すると言いながら、めまいを感じていた。ほとんど一日中食事をしていなかったので、少しめまいや吐き気がして、動悸がした。そこに恐怖が襲ってきて、出血性ショックにはならないのかと思いながら、カバンを持った。斉藤さんが下の階まで送ってくれた。ちょうどそこにMikuが車で迎えに来ていたので、車に乗って病院に向かった。

車を走らせて近くの病院に行くと、病院は閉まっていて、24時間開いている都心の大病院に行くしかなかった。血が止まらないうちに、青いゴム手袋は赤く染まっていた。急いで119番に救急電話をかけた。

しばらくして救急車が駆けつけ、右手を掴む左手が麻痺し、傷口が黒ずんで固まり、血なまぐさいにおいが漂っていた。救急車に乗ると横になるように言われ、人差し指に脈拍計が挟まれ、親指の傷が写真に撮られた。医療スタッフから傷口について、原因、時間、処置など、質問された。私は日本語で懸命に答えた。

30分後、車が病院に着くと、看護婦が迎えにきて、まず洗面所に行って傷口を洗浄してくれと言われた。彼らは特製の泡状の液体で洗ってくれ、終わったら水道水で洗い流してくれた。私は「アルコール消毒は不要ですか」と尋ねた。彼らは、「はい、水は最高の溶剤です。傷口をきれいに洗っています。」と答えた。 

夜診の医者に連れて行ってもらうと、医者は私の傷口を注意深く検査して、「大したことはないと思います。」と言った。そう言って傷口を医療用テープできっちり包んで、数日間分の抗炎症剤を処方し、帰る前に親指のレントゲン写真を撮らせてくれと言った。

深夜の救急室は、5つ星ホテルのようで、柔らかなオレンジ色の光と毛むくじゃらのソファ、そして踏むとかかとが大きく填まる厚底のスリッパで、さっきのスリルとは隔世の感がある。

X線室では、医師が辛抱強く手を振る動作を誘導し、異なる角度からいくつかの撮影をしてくれた。「骨に傷はなく、大したことはありません。」と主治医は確認した。「時間通りに薬を飲み、定期的に病院で傷を消毒すればいい。」という。検査代と医療費を払い、救急車は無料だった。会社が発行した労災証明書を手に入れたら、今晩立て替えた費用を取り戻すことができる。

けがをして3日間休んで、労災証明書類を入手した。右手に厚いガーゼを巻いて、水に触れてはいけないし、あまり力を入れてはいけない。約3週間後にガーゼを外して防水絆創膏に取替え、これでこの件は終わった。

大きな傷ではなかった。しかしこの小さな労災がきっかけで、日本の救急車のきめ細かなサービスを体験した。救急車の中に横になった時、私は自分が戦場で負傷した兵士だと感じて、それらの医療スタッフは天使のように私を囲んでおり、私はその時彼らの日本語を半分も理解できなかったが、彼らの熱心な精神と心の温かさを感じることができた。

《五年》(六)日本のサービス業に触れる

(六)日本のサービス業に触れる

日本のサービス業の繊細さが、このレストランで良く分かる。

客が来店すると、店員は声を大きくして元気に敬語であいさつしなければならない。「何名様ですか。」客は答えながら手で人数を表した。目の鋭い店員が客を案内し、一人や二人の客の場合は二人席に案内する。後の四人、五人、さらには複数人のグループのために、複数人用の席を確保することができる。

お客さんが入ってきたら、厨房に向かって声をかけて、お客さんの人数を伝えると、料理人も「いらっしゃいませ。」と声をかける。店のもてなしの雰囲気を盛り上げると同時に、何人分の料理を作るのか料理人にも見当をつけさせるためである。

客を着席させると、店員は春夏秋冬を問わず、氷の入った水を持って行く。氷はまだ溶けていないものを選ぶ。半分溶けた氷が水に浮いているのはお客さんに敬意を払わないことだ。氷水のコップ本体と台座はじめじめしていてはならず、水を運んだトレーに水垢が残っていてはならない。トレーを客の前に運んで、トレーからコップを取って客に渡す時、できるだけ片手でトレーの底を支え、片手でコップを取りに行く。例えば、トレーを客のテーブルの上に置いたり、トレーがメニューを押さえたりするのは模範的ではない行為である。

コップを一つ一つ渡す前に、「おしぼり」をまず客の手に届けなければならない。「おしぼり」は、夏は冷たく、冬は温かく、客の手のひらを清潔にし、好感度を高める役割を果たすことができる。特に旅行中の客にとって、冬は熱いタオルで気分を楽しませる。タオルと水を渡すと、店員が「注文が決まりましたら、テーブルのベルを押してください。」と言うのが、入店から注文までの一連の流れになっている。敦子さんが私の目の前で何度か実演してくれた。

流れは覚えたが、実際に実行するとなると、それほど簡単ではない。私の日本語の口語はまだお客さんと流暢にコミュニケーションをするのに充分ではない。心理的な抵抗を覚えて、なかなか全力を発揮することができなかった。 

客が食事を済ませてチェックアウトした後、テーブルの上の残り物はすぐに片付けなければならない。テーブルを片付けるのにあまり流れはないので、常識的にやればいいだけだ。食器をしまって、雑巾でテーブルの上をきれいに拭き、テーブルと椅子を正してしまえば終わりだ。

テーブルを片付けるのはロビーの初歩的な仕事だが、忙しくなるとそう簡単ではない。脳は各事柄の優先順位を迅速に判断する必要がある。例えば、テーブルを片付けているときにお客さんが注文してきたら、すぐに作業を止めて、お客さんの注文を優先する。お客さんが自分の要求が無視されていることに気づいたら、わずか3分であっても2日後に本部に苦情の電話がかかってくる可能性がある。

店が忙しくて手が回らないとき、パリンという音が聞こえ、足もとがびしょ濡れになった。私がテーブルを片付けていたときに、コップを三重に重ねてしまったのだ。一度に全部きれいにしようとしたのだ。重ねた三つのコップは、私が歩いている途中でよろよろと床の上に落ちて、一瞬にして粉々になってしまったのだ。

小林さんは私を責めず、素早くガラスの破片をきれいにした。後日、同僚たちも私が日本に来たばかりの日本語初心者としての難しさを理解して、日本人にとって非常に重要な口頭の儀礼的な敬語の使用に関して、私に対してかなり寛容になった。

夜ベッドに横になって、この仕事を続けようかと悩んだ。小林さんの慌てた仕事中の表情、店の忙しない仕事の雰囲気は私に多くのプレッシャーを与え、加えて左膝にかすかな痛みがあったため、このような仕事は膝が耐えられるかと心配した。4ヶ月前に上海松江で前の会社の32キロの徒歩イベントに参加して、左膝に後遺症が残ったのだ。そのため、8月1日に病院に行って、医者に膝を見てもらい、何枚かの湿布薬を処方してもらった。

先月起きた追突事故で、その日のうちに上海から持ってきたお金で車を買ったため、みるみるうちに貯金が残り少なくなり、そのお金で大都市に家を借りに行くつもりだった計画もいったん取りやめるしかなかった。

一方では自分の予想とは違う仕事の性質であり、一方では厳しい現実である。多分しばらくここにいることになると思う。高松も悪くなく、良い山と良い水、正真正銘の日本の風情、まさに本場の日本語を学んで、日本の文化を感じる絶好の機会だ。

最初の三ヶ月の試用期間はアルバイトとしての採用だったので、小林さんが私のシフトを作ってくれた。2週目の出勤時間帯は午前6時から午後2時までと定められ、1時間休憩となっていた。

出勤時にパソコンに自分の従業員番号を入力し打刻して、出勤時間を登録する。ここでのルールは、15分ごとに給与を計算することで、例えば、朝6時から出勤する人は、5:46と5:59の間に打刻の時間帯になるはずだ。5時46分に打刻することと5時59分に打刻することとは、違いがなく、両方とも6時から給与を計算する。同様に、1分遅れて6:01分にタイムカードを押すと、給料の計算は6:15分から始まる。1分遅れたら、15分の給料を失うという意味だ。

朝の勤務は6時から6時30分までの間に日本航空ANAのパイロットと乗務員たちに朝食の準備をするのが主な任務だ。日本航空ANAと空港は長期契約を結んでおり、乗務員は毎朝ここに食事に来ており、航空会社の従業員は翌日の朝食の内容を紙に書いて指定のポストに投函していた。里美さんが食事の支度や注意事項を一部始終説明してくれた。

パイロットと乗務員の朝食は、和食定食、牛丼定食、サンドイッチ定食、トースト定食が一般的だ。和食セットは、サーモンソテー、だし巻き卵、味噌汁、ご飯、漬物、みじん切り大根で構成されていた。牛丼定食はご飯、牛肉、刻み海苔、小ねぎ、味噌汁、漬物、ほうじ茶だった。サンドイッチセットにはサンドイッチ、サラダ、ハムが含まれていた。トーストセットにはトースト、サラダ、ハム、イチゴジャム、バターがあった。

細かいことは、箸の向き、ナプキンの置き方、定食の中にご飯、スープ、主食をそれぞれどのような位置に置くべきかなど、注意が必要だ。

里美さんと一緒に朝食の準備をしている間に、下手な日本語とジェスチャーで、私は彼女と話をした。彼女はシングルマザーで、27歳の息子がいて料理人だが、最近は病気のため家で療養しており、80代の老母も彼女の世話を必要としていた。彼女はクリスチャンだったので、機会を見つけてはキリスト教のことを話してくれた。

里美さんは優しくて温厚で、彼女の出現は私に緊張とプレッシャーと無力な感情の中で一抹の肉親のような気安さを感じさせてくれた。

毎日、絶えず新しい事を学んだが、困ったことにそれらはすべて日本語で、レシートの日本語が分からないだけでなく、各種の食べ物、飲み物の名前もわからなかった。ある時、敦子さんから「お皿を5つちょうだい。」と言われた。私は皿だと推測したが、あえて「いくつか」とは推測できず、その時の日本語のレベルは「皿5つ」の「5つ」もピンとこなかった。

彼女が身振り手振りで示したので、私ははっと悟った。

忙しくて、日々新鮮で、疲れていたが、目標があったので、毎日急速に上達していった……まず自分ができるふりをしていると、自分は本当にやり遂げることができた。

《五年》(五)職場の初印象

(五)職場の初印象

面接の時、太平さんが入社まで半月だと言ったので、私は二つ返事で承諾した。一般的な会社では、面接後1週間で出勤すると思う。数ヶ月後、入社まで半月待たされた原因は、8月15日がお盆の最終日で、香川から東京に帰る人の大部分がこの日に搭乗することを選ぶので、この日の利用客が最も多かったからだと知った。この日までの半月は何事もなく平穏で、私のような新入スタッフは必要なかったので、節約できることは節約するという原則で、半月も待たされたのだろう。

真っ赤に燃えるような8月、テレビはリオ五輪の報道ばかりで、情熱的な南米の風情は目を離す暇がない。ぼんやりとした中で、真っ白な雲、大木、水たまり、木の葉の隙間から透き通ってくる太陽の光を見たような気がした。

アマゾンの熱帯雨林の原始、自然、静謐さは、高松の平凡さを反映しており、コルコバードの丘にある巨大なイエスの石像が両腕を広げてリオを抱きしめ、そのそばをテレビの生中継カメラがかすめていく。見渡す限りの視界は心地よい。

半月の時間はあっという間に過ぎた。その間に空港に行って契約書にサインをした。後日直属の上司である店長の小林さんに会った。第一印象は四十代の人のようだが、実際は四十にもならず、ショウガ色のポニーテールが黒っぽい制服の上に横たわっていた。彼女は小さなサイズの制服を渡してくれた。濃い黒色で、襟には2つの白い線がついていて、ボタンは布の下に隠されていて、うっかりこすって落ちないようになっていた。

いよいよ出勤初日の日がやってきた。

私は黒みがかった装いで空港に現れた。なぜ制服に黒色が規定されているのかというと、おそらく、第一に黒色は汚れが目立たない、第二に黒色は人に落ち着きを与える、第三に黒色はお客様を引き立てる、ということだと思う。

頭がぼーっとしていたが、小林店長は私を国際線搭乗口まで案内してくれた。「毎週月曜日、木曜日、土曜日、日曜日に上海、香港、台北とソウルへのフライトがあります。こちらの表示板でフライト情報を見ることができます。当日の店の忙しさを推測することができます。」と話してくれた。このカフェは空港で数少ないメニューが豊富なレストランで、各便の人がここで食事をするだけでなく、多くの空港従業員にランチを提供している。

カフェというよりはレストラン、カフェとレストランの機能を兼ねた食事処といった場所だ。全体の配置はL字型で、入り口から7、8メートルから右に曲がると8、9メートルほどのスペースがあり、突き当たりの鏡面の壁がレストラン全体を広く明るく見せている。

私はこれまでレストランの仕事をしたことがなかった。カウンターに立って、目の前にずらりと並んだきらきらしたコップを見ていた。台座が四角いもの、全体が丸いもの、瓶の口が球形のもの、細長いもの、漏斗形のもの、足が低いもの、口が広いもの、ガラスのもの、陶磁器のもの、プラスチックのもの……眺めていると目がくらくらしてきた。簡単に見えるカウンター内部も、そう簡単ではない。

私の気がつかないうちに、小林店長は氷の塊の入った鉢を持ってきた。彼女は38歳で、薄化粧で汗のせいでファンデーションが上手くカバーできず、顔にややシミがあるのが見て取れた。細長い浅黒い眉毛の下には疲れた目があるが、顔立ちは整っていた。

彼女は私に「まず同僚たちを紹介します。」と声をかけた。「ありがとうございます。はい、よろしくお願いします。」と、まだあまり上手ではない日本語で答えた。

カウンターの一端からキッチン全体を一望できるオープンなデザインで、スペースも確保できるうえに、店の衛生状態が外から分かるようになっている。

小林さんは「台所で青いストライプを着て黒い帽子をかぶっている女性の名前は由香さん。」と紹介した。私はポケットのノートを取り出し、丁寧に「由香」の文字を書き留めた。朝家にいるとき、同僚たちの名前をどう覚えたらいいか考えて、このノートを用意した。小林さんは、テーブルを拭いている女性を呼んだ。短い髪、深い眼窩、乾燥した首、痩せた体つき、彼女の名前は里美だった。

里美さんと挨拶をし終わったばかりの時、裏口から入ってきた元気な女性は、ポニーテールをしていて、洗練された化粧をしていて、目じりに大きな黒子があって、私は瞬時に彼女を覚えた。彼女の名前は敦子だった。

その日レストランに居た従業員と知り合った後、空港をぶらぶらした。上下2階の空港には塵ひとつなく、レストラン、書店、飲み物屋、コンビニエンスストアが軒を連ねている。現代的なデザインは空港をおしゃれな雰囲気に見せている。美しいラウンジのレセプションホールのお姉さん、謙虚で礼儀正しい清潔なおばさん、おてんば姿のファミリーマートのレジ係など、多彩な画面を構成している。

日本語が下手な私は、あまり自信がなくて、少しは人に軽蔑されることもあるかもしれないと思った。しかし、中国語しかできないと、日本では差別される確率が高いけど、私の英語は多くの日本人より上手で、日本社会は英語の上手な人を高く評価しているので、私の中で彼らが日本語をうまく話せない中国人を軽蔑しているのではないか、という思いを中和してくれた。大部分の人の根底には少し下を虐めて上に媚びるような卑しい品行がある。

幸い、英語はある意味私の尊厳を救った。だがもちろん、実は何の役にも立たない尊厳だ。

《五年》(四)日本で初めての仕事を見つけた

(四)日本で初めての仕事を見つけた

面接当日は、オシャレをして車でMikuと高松空港に向かった。立派な空港のロビーに十数台のエレベーターが動き、活気にあふれている。道路標識をたどって、通路の突き当たりにあるレストランを見つけると、入口の脇にネオンサインとアイスクリームボックスと値札が二つ並んでいた。

私が来意を表明すると、スタッフが熱心に席に呼んでくれて、続いてアイス紅茶を出してくれた。朝早いから、まだ完全に目が覚めていないのに、コップの中のピンポン玉ほどの氷を見て、少しも飲む意欲が湧かなかった。面接のために、やはり飲まないことにした。万が一、飲み方が汚くなったり、途中で面接官が出てきたりしたらどうすればいいのか。そこで、氷をアイス紅茶の中でくゆらせると、ゆっくりと中に溶けていった。

容貌の若い男性が屏風の後ろから出てきて、丁寧にお辞儀をして、今日の面接官である太平だと自己紹介した。面接は三人が一緒にいる場で始まった。彼はまず私に仕事の履歴と目標給与を記入させて、それから私に基本的な情報を尋ね始めた。

「日本に来てどのくらいになりますか?」 

「1か月」

「中国で卒業した大学は公立ですか、私立ですか?」

「公立」

「勤務時間帯は何時から何時までいけますか?」 

「朝から夜までいいです。私の住んでいるところは近くて、車で5分しかかかりません。」

「採用するなら、まず3ヶ月の試用期間があります。3ヶ月後、私が社長に推薦状を書きます。その時、社長と面接してください。合格すれば、正社員になります。」

「はい、ありがとうございます。」

全体的に頼りないような気がしたが、家から近く、華やかな空港で仕事ができるということで、とりあえず承諾した。面接では、正社員になることを一心不乱に考えていたので、試用期間の時給の話を忘れていた。

面接が終わった後、太平さんの指示に従って、銀行に給料カードの手続きをしに行った。スーツを着た私は空港を出て香川銀行に直行した。途中、意気揚々と、銀行ホールに居るおじいさんやおばさんの注目のもとに銀行カードを手続きした。この時の私は1匹の魚のようで、広々とした海の中で漫遊し、層のうろこの波は風に乗って起き上がり、反射する日光を伴って、私の心を映している。 

日本に来て一ヶ月ほどで、ちゃんとした仕事を見つけて、嬉しそうな顔をした。

人は、「三人面接」などを含め、何でも大胆にできる。言葉が分からないのであれば、通訳できる第三者が現場にいてもいいのではないか。

世の中には、常に考えられる以上にできることがたくさんあるじゃないか。

《五年》(三)就活中に遭遇した奇怪な出来事

(三)就活中に遭遇した奇怪な出来事

7月のある日曜日、朝の風はミントのように涼しく、四方八方から吹いてきて、一晩中潜んでいた大小の露の玉が逃げ、蒸発し始めた。日差しは水滴に屈折されて七色のきらめく光沢を呈し、華やかな錦のようだ。私はバスで大阪の外国人就労情報センターに登録しに行き、ついでに仕事の情報を集め、関西あたりに適当なポストがあるかどうかを探った。

センターに入ると、満面の笑みを浮かべる日本人女性から相談申込書を記入するように言われた。左の欄は希望言語だった。私はしばらく間を置いて「中国語」の欄にチェックを入れた。中国語を知っているスタッフは私の立場に共感するかもしれないと思った。

まさか、数時間でその期待が消えてしまうとは思わなかった。

私が記入デスクで待っていると、顔の筋肉がたるみ、髪をポニーテールに束ね、前髪の根元が白くなった中年の女性が私に向かってきた。手にA4サイズの用紙を10数枚ほど握っていて、彼女は2分以上もかけて歩いて来た。彼女は中国人で、近づいてくると、立って私に尋ねた。「あなたは中国人ですか?どんなビザを持っていますか?」私はひとつひとつ答えた。

そして、私たち二人の会話が始まった。 

女:「こちらは、あなた自身がネットで検索しているのと変わらないよ。」

私:「こちらには、外国人向けの仕事情報みたいなものはありますか?」 

女:「いいえ、まだ記入しますか。」

私:「来たからには、記入しましょう。」

女:「お名前は?」

私:「※※洲。」

女:「どの洲?」

私:「五大陸の洲。」

名前を書き終えて見ると、さんずいが抜けていた。

私:「洲の字に3点のさんずいが足りない。」

女:「点が三つあるのですか?」

そう言って二つの漢字の狭間に、小さい字で点を三つ足した。

女:「日本語が話せますか?」

私:「ほとんどできないです。でも英語は大丈夫ですから、英語に関係する仕事を探したいです。」

女:「何年英語を勉強したの?」

私:「十数年でしょう、ニュージーランドに一年半いたから、英会話は大丈夫です。」

女:「一年半で大丈夫?」

私:「インドでも一年間働いたから大丈夫だと思います。」

女:「2年半で英語がマスターできるんですか。私たちはここでそれくらい勉強しても会話ができません。」

私は彼女の話を聞き続けなかった。彼女は自分の状況で他人を類推した。この混乱した論理は彼女の低級さを証明するのに十分だった。もし彼女が意図的に私を侮辱するのであれば、なおさら説明する価値がない。彼女が私の代わりに表に記入してくれた後,私は体を近づけて見た。

私:「この行の字はどういう意味ですか?」

女:「ああ、工場で働くという意味ですね。」

私:「すみません、工場で働きたくないのですが、ほかのことを書いてもいいですか?」

女:「それはどうでもいいよ。何を書くにしても、ネットで検索したものを基準にしているからだよ。」

私:「どうでもいいのなら、私の希望職種を書いてください。」

女:「あなたの目標賃金はいくらですか?」

私:「就職地の平均賃金ですね。」

彼女は首をかしげ、筆を動かして、目標賃金である月給15万円を書いた。

女:「あなたの最初の仕事は何ですか?」

私:「内部監査。」

女:「内部監査って何? 」

私:「主に財務システムなど企業の経済活動の監視と審査です。」

女:「自分で書いて…… 」

女:「次の仕事は何ですか?」

私:「自分で書きましょう。」

彼女から表を受け取ってみると、職歴欄の順序が逆に書かれていて、字体がゆがんでいた。目標の月給「15万円」の文字を見て腹を立てたが、無理やり怒りを抑え、表に記入し直して問い合わせ先に聞いたところ、ここは高松の職業紹介所と本質的な違いはなく、私が思っていたような特定の人への情報集約や職業推薦などのサービスはないという結果が得られた。

大阪から帰ってきて、昼間は日本語学校に行って、夜はいろいろな求人サイトをチェックして、京都の英語マーケティング担当者に応募してみた。

数日後、京都の会社から興味津々の返事が届いた。その行間には、京都は中国人観光客が多く、ビジネスニーズが拡大しているため、中国語を話せる従業員の規模を拡充する必要があるとのこと。また、欧米の顧客も増えており、中日英3カ国語ができる人を大歓迎しているとのことだった。

そこでメールでやり取りし、ビデオ面接の時間を決めた。通話の結果、この会社は創立間もない小さな会社で、現在会社の正社員は2名だけで、上司は毎日京都の留学生のアルバイト従業員と一緒に働いていることがわかった。会社の主な業務は海外観光客にモバイルWIFI設備を売り込むことだ。

私は「もし私が採用されたら、どのような形で採用されますか?」と尋ねた。「まずパートタイム社員で、3ヶ月の試用期間を経て、業務能力と仕事ぶりが会社に認められれば、契約社員に転じることができる。」と説明した。正社員になれるかどうかは、明確に否定も肯定もしなかった。

後で知ったことだが、日本での就職活動は、このようなあいまいなものは、断固として断らなければならない。

蒸し暑い7月の夜、畑ではカエルの声が沸き立って、まるでにぎやかなパーティーを開いているかのようで、窓ガラスにヤモリが群れていて、一見不気味だが、日本の文化ではヤモリは縁起がいいことを象徴している。家にヤモリが何匹もいるのは大吉だ。もし夏の夜、窓ガラスにヤモリの姿が見えなくなったら、一部の老人は焦るのではないかと心配する。

7月21日夜、高松国際空港のある店が正社員を募集しているという情報が検索された。募集要項を閲覧した後、ちょっと試してみてはどうだろうかと思った。募集情報には、正社員に応募したい人はハローワークという機関に登録し、紹介状をもらってから応募できると書かれている。

ハローワークはロビーと相談所の2つに分かれている。

入るにはまず相談所で個人情報を登録し、生年月日、国籍、外国人の場合はビザの種類をチェックされる。相談が終わった後、一人一人がナンバープレートを受け取り、そのプレートを持ってロビーに行く。ロビーには数十台のパソコンが置かれていて、自分の希望する職を選ぶことができる。選別の方式は中国国内の求人サイトと同じだ。

希望する職を見つけるとすぐに印刷することができ、各パソコンの横には無料のプリンターが用意されており、印刷後は仕事の説明が記載された紙を持って相談所に戻る。

職務の要件、福利厚生待遇及び個人の意向に基づいて、相談所の人は相応のアドバイスを出す。自分で応募を決めたら、相談所の人に会社に電話をかけてもらい、募集状況を確認後、会社に応募者を簡易に紹介してもらう。会社はとりあえず応募を受ける場合は、すぐに電話で面接時間を決めることができる。

次に、相談所から求職者にハローワーク紹介状が発行され、面接には履歴書、職務履歴書、紹介状を持参する。企業ごとに要望は異なり、まずこれら3つのものを郵送してほしいという企業もある。

基本的にハローワークは良い仕事を探す場所ではないが、例外もある。

目がいいか、運がいいか。

私が訪れたこのハローワークは飯山のふもとにあり、山の形がご飯をたっぷり盛ったような形をしていることから、五穀豊穣を意味する飯山と名付けられた。自動ドアがサーッと開閉し、エアコンがよく効いていて、冷房がドアの前に置かれたいくつかのゴミ箱を冷やしていた。

私はロビーに直行し、昨夜選んだ求人票を印刷して相談所に行き、十数分並んで待っていた。スーツを着た初老の男性スタッフが私に応対してくれた。早口な初老男性の特徴的で曖昧なアクセントは、私には馬の耳に念仏のようで、何が何だかわからず、先日習った語彙や文型がどれも当てはまらないのではないかと考えていた。

一般的には、口語やリスニングのレベルがそれほど高くないとき、母語話者とのコミュニケーションは、第二外国語話者とのコミュニケーションよりも難しい、1つ目の原因は母国語を話すのは図らずともカジュアルになる傾向があり、文の構造の処理が柔軟だからだ。第二の原因は、母国語を話すときに自分の発音をあまり気にしないからであり、地方なまりがあるだけでなく、発音が怠けていて、はっきりしていなく、勝手に言葉を省略している人もいるからである。第三の原因は、一部の年配の男性は口の中で言葉を半分吐いたり、濁したりするので、さらに聞き取りに骨が折れる。

この初老男性の冒頭の言葉は私にも理解できたが,後は五里霧中になった。Mikuはそばにいて英語で私に翻訳してくれた。その初老男性は思い切ってMikuと直接話をし、5分後、Mikuは私の手を取って座席を離れ、ドアの外に向かった。建物の外に出ると,私は「何があったのか」と不思議そうに尋ねた。

Mikuは、「さっきの人は日本語が話せない中国人に会ったことがない、日本語が話せないと仕事もできないのに、どうするのかと言っていました。私が彼は日本語の読み書きはまあまあだし、漢字も分かるし書けるし、将来仕事で分からないことがあったら同僚に紙に書いてもらって、書面でコミュニケーションをとればいいと説明したら、どこの会社にそんなバカなコミュニケーション方法があるのかと言われました。」と語っていた。

Mikuは彼の言葉が私を侮辱したと思ったので、さっき私を引っ張って出てきたのだ。「それなら、まず受付にクレームを言ってみよう。」と私は言った。そこで、また日差しの強い戸外から冷蔵庫のような室内に入って、フロントに直行して、さっきのことを一部始終話した。十分後、二階から中年の女性が降りてきて、私たちを二階に連れて行ってくれた。

二階は技能訓練を専門に提供するサービス所で、彼女は私たちに事のいきさつをもう一度話してくれと言った。私たちは情をこめて話し、将来彼が他の人に不遜なことを言わないように懇願した。それから、中年の女性はすみやかに応募を検討していた空港の店に電話をかけてくれた。電話の向こうは空港の店の人事部の責任者で、彼は私の情報を聞いてから、私に先に履歴書、職務経歴書と紹介状を送るように言った。

ハローワークから帰ってきたらこの3点を早速送った。3日後、面接の誘いを受け、7月28日に空港で面接することになった。

ちなみに、初老の男性の口からは「どこの会社にそんなバカなコミュニケーション方法があるのか」と言われたが、直後に探した仕事では、私が最初から日本語会話が全然できなかったので、フレンドリーな同僚たちが一文字ずつ紙に書いてコミュニケーションしてくれた。

そんな初老の男性の失礼な接待行為を私は原稿にして、2017年12月の高松日中友好スピーチ大会で大勢の人の前で講演した。

山の上の人は山の下の人を軽蔑してはいけない。下の人がいつか山に登って来て上の人の代わりになるからだ。山に登っている人も、山を下っている人を軽蔑してはいけない。山を下っている人が山頂でくつろいで輝いていた時、山に登っている人はその時まだ山のふもとにいたからだ。

人生は山を登ったり、下ったりしていくことだ。

《五年》(二)高松の日本語学校

(二)高松の日本語学校

私の日本語のレベルはほとんど0で、来る前に上海で臨時の付け焼刃で、何ヶ月かの初級文法を学んだことがあるが、まだ五十音をも全部暗記することができていない。高松では、公共交通機関が発達していなくて、誰もが車を運転し、私は日本の運転免許証がないので、運転することもできない。

運転免許証を取るのはとても簡単なことではない。筆記試験は数十問の問題があって、間違った問題は一桁のみ許される。日本語のレベルがほぼ0の人に対して、更に無理がある。それ以外に、運転免許証を取るのに必要な費用も非常に高く、それらを考慮し、運転免許試験のことは棚に上げる。車を運転できないと、就活の範囲は周辺地域に限られてしまう。

就職活働を始めると同時に、全力を尽くして日本語を勉強し始めた。この硬い骨のような難題には遅かれ早かれ齧り付く必要があり、先延ばしにすれば百害あって一利なく、そこで市が運営している外国人に特化した日本語の訓練講座に申し込みをした。1週間に1回、毎回4時間、費用は極めて安かった。

初日の授業で、私は入念に身支度をして、自己紹介も用意した。教室には冷房が効いていて、四人のクラスメートが50代の女性の先生の周りに座っていた。私が入ってくると、彼らは熱心に振り向いて挨拶してくれた。先生は私にいくつかの質問をした。「どこの国の人?いつ日本に来たの?」

4人の学生はスーダンからの女子留学生、インドネシアからの主婦、中国東北部からのお姉さんとアメリカ人の女子大生だった。

先生は「中国人同士、お姉さんと一緒に座って。彼女はここで何学期も勉強しているから一定の基礎知識があって、分からないことは彼女に聞いて下さい。」と言った。実はこのクラスも始まって二週間になっていた。私は編入生で、お姉さんのそばに座ると、彼女は東北弁のなまりの強い共通語で私と話し始めた。

「私は日本人と結婚しました。それから日本に来たのですけど、私は偽装結婚していました。彼は私より20歳以上年上ですよ。」と、お姉さんがいきなり言ってきて、私の背中が冷たくなった。お姉さんはとても豪快で、会って3分もしないうちに、プライバシーをさらけ出した。お姉さんは日本に来てもう8年で、すでに日本の永住権を手に入れていた。最初は偽装結婚でしたが、その後ゆっくりと本当の夫婦になった。男性は彼女によくしてくれ、お姉さんと結婚する前に結婚歴はなくて、子供もなく、お姉さんは元夫との間に生まれた息子を日本に迎えた。

お姉さんは今、息子と市内のアパートを借りて住んでいるが、数ヶ月前に夫の家から引っ越してきた。中国から来た息子が姑に嫌われているからだという。お姉さん自身の分析によると、姑は自分の息子には子供がいないと考えており、法的には今後、すべての遺産がお姉さんの息子のものになるという点で、姑はこの息子を受け入れられないし、受け入れたくないという。

授業中、先生は恥ずかしがらないで、とみんなを励まし、お姉さんは少しも恥ずかしがらず、先生の質問に先を争って答え、先生は頻繁に礼儀正しく彼女を遮らなければならなかった。

高松に半年ほど住んでみると、日本にいる中国東北人の数は膨大だと気づいた。留学してきて卒業後もここに残って働いている人もいれば、親戚や友人の縁でレストランを経営しに来ている人、カキ工場や弁当工場で仕事をしている研修生もいれば、結婚して移住してきた人、かつての日本人孤児の子孫もいると発見した。

日本語教室の机は半円形に並べられ、私の右手に座っているのは、現在も戦乱と貧困の中にある南スーダンの出身で、地元の部族の首長を父に持ち、地元では裕福な家庭に属するスーダンの少女、エイシャさんだった。エイシャさんは香川大学で農業を専攻し、帰国後に現地の農業発展を支援することを目的とし、明確な目標と高揚した動機を持っていた。

彼女は黒人のイスラム教徒で、一日中ヒジャブを巻いていた。初日の放課後、エレベーターを待っていた時、彼女は私が中国人に似ていないと言い、私はエイシャさんが私の知っている2人目の美しい南スーダンの女性だと言った。3か月後,エイシャさんは南スーダンに戻っていった。

日本語教師のこの仕事はアルバイトで、普段先生は公立中学の国語教師をしているので、ここの授業の質は保証されていた。金髪碧眼の外国人もここで何学期も勉強した後、日本語の能力試験に合格することができた。

英語の先生である私にとって、日本語を勉強するのはそんなに難しいことではなく、語彙、文法、読解、作文、聴力、口語を公式に照らして頭に入れる。そこで、私は力を入れて、普通の人の3倍のスピードで日本語を勉強し始めた。

この日本語クラスで2つの授業を学んだ後、私は自分の独学のスピードが授業の進度より上であることを発見して、少し集中できなくなったので、申請して内容の更に深いクラスに行きたく、協会の責任者と相談した結果、順調に隣のクラスに交代する事が出来た。

エアコンは前の教室と同じようにとても寒くて、教室は1つの巨大な冷蔵庫のようで、外壁は透明なガラスレンガで、ガラスレンガの外は協会が植えたゴーヤが生えていて、繁茂したゴーヤのつるは壁全体を這って、青々とした葉は炎天下のまだらな光の影にきらめいて、一つ一つが短くて太い白いゴーヤは、ぶら下がっている翡翠のようで、外皮は乳白の光を発していて、学生たちはほとんど全員白いゴーヤを見たことがなかったので、競って写真を撮った。

このクラスの日本語教師は40代の独身女性で、一見30代前半のように見え、洗練されたショートヘアにピンクのフレームのメガネを合わせ、軽やかな足取りをしていた。まず自己紹介をするように言われた。生徒たちが順番に自分たちを紹介してくれた。紹介されてみると、中に中国人がいることを知った。中国の会社から日本に派遣されたエンジニアだ。高松の農民と結婚したタイ人もいて、家には巨大な農場があり、比較的裕福な家庭だ。フィリピン人もいて、同じく結婚して高松に移住してきて、現在弁当工場で働いている。インドネシア人の男子学生がいて、高松の大学で農業を学んでいる。

彼らの紹介時の口語表現を聞いて、私は心の中でひそかに考えた。この人たちの日本語のレベルは私より上かもしれないが、容姿を見ると、それぞれとても慈善的で友好的な様子で、雰囲気はリラックスしていて、何も心配することはなさそうだったので、思い切って最後に自分も自己紹介した。日本語の授業の学習は何事もなく平穏で、先生は進度を持って、授業の中で文法と文型を説明し、口語の一幕があって、授業の後の練習はテストと知識を強化する目的があった。

授業の休み時間にサプライズがあったり、タイの女性が自分の家で栽培したトマトや柑橘類をみんなに配ったりしていた。どれも小袋ごとに丁寧に包んでいた。タイ人女性は農場主と結婚して3年になるが、農閑期にはコンビニや工場でアルバイトをし、農繁期には仕事を辞めて家で収穫を手伝うという生活を送っていた。

日本語学校にはいろいろな人が居た。私はここで一ヶ月以上勉強した。日本に来てしばらく生活すれば教師なしで勉強できるので、日本語専攻の学生のように体系的に勉強する必要はないと言われたことがあるが、「もしあなたが日本できちんとした仕事をしたいなら、やはり体系的に勉強する必要があります。」と答えたいと思う。

日本語には敬語があり、うっかりすると相手を怒らせてしまうこともあるが、それは文法の間違いや発音の間違いを無視し、外国なまりを容認することを前提にしている。もし高圧的な年配の日本人に出会ったら、恐らく動詞の時制が間違っていた場合、相手はあなたの日本語のレベルが足りないと思って、更にあなたの業務のレベルも普通以下だと思っている可能性が高い。

どの言語もそうだ。方言はさておき、標準語でも地域性が強い。天津の人が「你干嘛(何をしているのか)」、湖南人が「(好多钱)いくら」と言うように、地域の特徴がはっきりしている。そんなことを踏まえて、基本的な文法すら身につけていない自分のことを考えると落ち着かない。日本語は紛らわしい擬声語や擬態語が世界で最も多い言語の一つであり、日本人に好まれている。同じ意味の形容詞や副詞ではなく、擬声語や擬態語を優先して意味を表現している。

日本語を勉強することを生活の中の一つの習慣にして、毎回落胆して、或いは自分に対していわば鉄が鋼にならないのを残念に思うような時、私は無意識に日本語にかじりついて、1つでも多くの単語を覚えて、1つでも多くの文法を身につけて、更に少しでも進歩することだと、心で思った。

2017年7月に日本語能力試験N3に合格し、12月にN2に合格し、2018年12月にN1に合格した。すべてを独学で勉強し、すべて一回で合格した。

独学で日本語能力試験の最高級試験に合格して、日本語のレベルを上げると同時に、自信もついた。N1は中国国内の日本語専攻学部生の必須要件であり、中国国内の日本語の達人にとっては特筆すべきことではないが、高校を卒業した後、日本で語学学校に通い、その後、日本で普通の大学に通う留学生の多くがN1に合格していないのも事実だ。