《五年》(二十四)心の切り替え

(二十四)心の切り替え

COVID-19は人類の歴史に濃い色の一筆を残すことを運命付けられている。それは世界で猛威を振るい、威力は第二次世界大戦に迫っており、今日の人類社会が直面している最も深刻な挑戦と言える。この先どうなるかわからないし、ワクチンは出ているが、その効果がどこまであるのか、副作用ももちろん疑問だ。まだ実験段階も終わっていないワクチンを一般人に投与するのは、仕方がないことではあるが、無責任に過ぎない。

人類は2年か3年先も、悶々とした日々を送ることになるだろう。

大阪に引っ越して1年余り、梅田や難波のような繁華街はめったに訪れず、ほとんど在宅勤務で仕事をし、週に1回だけ会社に行くなど、薄氷を踏むような慎重さを持って過ごしている。マスクは口から離してはいけない。会社に行くと、朝アルコールで机を拭くのは当たり前だ。1日に7、8回は手を洗うのが普通だ。地下鉄の車内で咳をしているのを聞くと、すぐに神経が引き締まり、できるだけ遠くに離れたり、頭を振り向けたりする。これはあまり積極的な役割を果たすわけではないが、せいぜい心理的に自分を慰めることができる。

このような慎重な日々を送っていると、多かれ少なかれ苦心することになるが、いくら苛立っても、歯を食いしばって我慢するしかない。パンデミックを前に、人は風の前の塵に等しい。

2020年は、すべての人に1つの厳しい試練を与え、1つの分岐点であり、新しいパターンの出発点でもある。だが最悪の場合でも、中世の人々が黒死病に直面した時ほど悪くはないはずだ。

2021年、依然として厳しい状況だが、人々は次第にコロナに心の疲れが生じ、防護措置は生活に溶け込み、多くの人の習慣になっているが、大多数の人の心の中には、このウイルスもそれほど怖くなく、1年も経っているので、少しリラックスしても大丈夫ではないかという心理がひそかに生まれ始めている。

コロナの勢いは変わらず、多くの施設は非正常に運営されており、時間を短縮したり、その他の制限を加えたりしている。これはすべて人の生活に多くの不便をもたらした。コロナで失業した人や、倒産した事業者には、言うまでもなくつらい日々が続いている。さらにコロナ前から収入の変化があまりない日々を送っている人にも、心理的に大きな影響を与えている。

私が仕事に感謝し、上司や同僚に感謝し、人類史に痕跡を残したパンデミックの中で失業せずにいられることは、本当に感謝すべきことだ。

6月末、東京五輪の開幕を目前にしても、コロナ終息の兆しは見えない。

2020年末、私は何歳も年下の日本人と知り合った。彼の仕事は水泳のコーチの仕事で、オーストラリアやアメリカに行ったことがあり、英語を流暢に話すことができる。一生懸命働いてお金を稼ぎ、暇な時間を副業の仕事で埋めていて、若いうちにもっとお金を稼ぎたいと言っている。そうすれば年を取って何も心配しなくてもいいと言った。

彼の言葉は私を目覚めさせた。私は十数年「怒れる若者」であった。物質上の事に対して、金銭の事に対して、これまであまり重視していなかった。ずっと友からは理想主義者と言われ、現実に目を向けず、ただ自分の理想で世界を改善することができると思っていた。自分の理想のために何かをしたいと思って、甚だしきに至っては何かを犠牲にしても良いと思っていた。人と人との間のいろいろな関係において、真実さと正直さを崇拝していて、他人を理想化しやすかった。

しかし、2021年に入ってからは、コロナ禍の長続きのせいか、その友人のせいか、年を取ったせいか、目に見えないエネルギーのせいか、私の考えは変わり始めた。「怒れる若者」であることをやめて、もっと人とつながり、もっと人に温かみを与え、もっと物質的なモノを手に入れることを心がけるように注意している。

それと同時に、私も次第に焦り始めた。朝早く目が覚めた時、その原因はほとんど焦りだった。時間は日に日に流れて、生活はあまり向上することがなく、以前は自分にはできることがたくさんあると思っていたし、旅に出たり、酒を飲んだり、歌を歌ったり、理想の世界を熱く追求したりする時間がたくさんあると思っていた。

でも今は、自分の残りの人生の時間が本当に少ないような気がして、どうやって社会に役立つ価値を作って、自分の財産を作っていくかしか考えていない。

時間はただの数字だが、心の持ち方は時間によって変わる。

《五年》(二十一)申し訳ありません

(二十一)申し訳ありません

2020年6月のある日、雨。

今日も在宅勤務の予定だったので、朝、眠い目を覚まして、コンピュータのそばに行って、遠隔操作のソフトウェアを開く。依然としてとても長い時間がかかる。少なくとも私の感覚では、心理的にも結構長い時間が必要だ。時にはしばらく待ってもまだ接続できない。ネットワークの問題のためか、会社のコンピュータの問題のためか、或いは遠隔操作のソフトウェア自体の問題のためだ。

在宅勤務をし始めたばかりの頃は、リモート接続ソフトもまだ成熟しておらず、接続しようとしたときに、何か問題が起きて接続できなくなるのではないかと心の中で恐怖を感じ、その数分間は黙々と祈っていた状態だった。

この日の朝も例外ではなく、外は小雨が降っていたが、窓から漂ってくる空気は澄んでいて、少し潤いのある感じがした。階下のモクセイの木の成長はとても旺盛で、枝葉はもうすぐ私のベランダに入ってきそうだった。

十数分かけて会社のパソコンに接続した後、私は復雑な内容の顧客からのメールに目を奪われて、前のめりになりながら真剣にメールの返事を書いていて30分近く経っていた。

その時、突然私のメールボックスに台湾の先輩が会社の何人かのリーダーに送ったメールが現れた。私をCCにしていた。メールの内容は私が積極的に彼女に協力せず、意図的なのか意図的ではないか分からないが、彼女がWeChatのデスクトップのインターフェイスにログインすることができないようにしているので、彼女が今日まともに仕事をすることができないとしたら、皆は彼女を責めないでという内容だった。

私はメールの中に感情的な表現を見て、心の中の炎は一瞬にして燃え上がった。彼女と私の状況は同じかもしれない。COVID-19の影響で、自分の心理に抑圧が生じ、色々なことがうまく行っていないと感じていた。毎日、家と会社の往復のみで、自由を失ったような気がしていたし、それに生活の中で多くの思い通りにならないことを抱えていたので、たまっていたストレスもついに、その瞬間に爆発した。私は直接直属の上司に3人のLineグループの中で電話をかけた。しばらく話をした後、台湾の先輩が音声で割り込んできて、感情的に私と対峙し始めた。

私の気持ちはいっそう高ぶって,彼女と電話でけんかを始め、続いて二人は不愉快になって電話を切った。3人での話し合いが終わった後、私は在宅勤務をしているはずのこの日、雨の中を会社に行って、会社のさらに上の役職の上司たちにこの事件の経緯を説明した。

「お二人はいつから仲が悪くなったの?」上司が私にいつものような小さな優しい声でささやいたように尋ねた。

「彼女が台湾に帰ってからでしょう。それまで事務所にいた時は、私たち二人はとても仲がよかったです。」と私はありのままに答えた。

「なるほど。」上司はうなずき、目をかすかに細めて、何か考えていた。

「長い間在宅勤務なので、お互いに会うことができなくて、誤解を生みやすい状況になっているので、後で皆でビデオ会話をしましょう。」と会社の社長は口を開いた。彼女の口調はゆっくりしていて慌ただしくなくて、余裕があり優雅だった。

「私もそう思います。在宅勤務は確かに双方に誤解を与えやすいので、時々ビデオ会話をしても良いと思います。」私は回転椅子を少し右に何度か回して、彼女の提案に応じた。

午後、私たち3人は会議室でビデオ会話をした。台湾の先輩は私の様子を見て、とても怒っているように見えた。隔離、祖父の死、日本に帰れない、仕事のストレス、私との競争で追い越される恐れや焦り、そして午前中に起きたことへの怒りを一気に発散してきた。

仕事は相変わらずだが、台湾の先輩との関系は以前には戻れない。その主な原因の一つはテレワークである。相手に会えないため、キーボードの後ろには、二人の間で憶測の空間が広がり、面と向かって言えないこともキーボードに打ててしまう。

1ヶ月余り後、台湾の先輩が辞めることを決めたのは、様々な要因を考慮した結果だろうが、その中で重要な点の一つは、彼女の家族が彼女に台湾にいることを望んでいることだ。

あの日の出来事が彼女の辞任の原因の一つでないことを私は心から願っていた。さもなければ、私は本当に罪の意識を感じるからだ。私は彼女に何の悪意も持っていなく、むしろ彼女にとても感謝している。あの日の出来事で、私は自分の情緒管理の失敗を責めた。もしあの衝突がなければ、この結果を引き起こしたかどうかは、現時点では不明である。事が起こってしまったのは起こったことで、過去のことはもう変えることはできない。

すべての人の人生の旅には何らかのカルマが働いており、神様は彼女のために別の道を用意したのだろか。

すべてはやり直すことはできない。すべてに「もし」はない。「もしコロナウィルスが発生しなかったらどうなったのか?」というようなものも、すべて意味がない。

「もし」はないが、やはり「申し訳ありません」と言いたいと心から思う。

《五年》(二十)先輩が台湾へ帰った

(二十)先輩が台湾へ帰った

2020年5月7日、台湾の先輩の祖父が亡くなったことを知った。

彼女は私の左に座っており、朝、かすかに何かおかしい雰囲気を感じた。私が座ると、彼女は振り向いて、「おじいさんが亡くなったので、明日台湾に帰るつもりです。今、お知らせします。」と言った。

私はそれを聞いて、少しショックを受けたが、あまりそんなに驚きはなかった。彼女は以前、祖父が90歳を過ぎていて、何年も病気で病床に臥せっていると言っていたからだ。このようなニュースを聞いて、私の内心は彼女のことをかわいそうに思ったに違いないが、何と言えばいいのか分からなかったので、「わかりました。道中は安全に気をつけて、できるだけ早く帰ってきてください。」とだけ言った。

しかし、この時点ではCOVID-19のために日本国籍以外の者は日本に入国できないように入国制限が実施され、台湾の先輩が一度日本を出国した後、入国制限が解除されなければ、再び日本に入国する可能性はほとんどないことを意味していた。さらに悪いのは、彼女の一年間ビザは7月初めに期限が切れてしまう。もし期限までに日本に入ってビザを更新することができなければ、彼女は日本を離れる道しか選択できない。

そこで、このような内心の葛藤、外部のコントロールできない要素が多い状况の中で、彼女はやはり台湾に帰っていった、年長の孫娘として、また彼女の祖父の唯一の息子の唯一の娘として、彼女は自分に祖父の最後を見送る義務があると感じたのだろう。

このようなジレンマを除けば、台湾の先輩の心の中にはもう一つの感情があった。もともと彼女は5月のゴールデンウィークに台湾に帰るつもりだったが、COVID-19が猛威を振ったため、5月の連休に台湾に帰省する計画が狂ってしまったということだ。COVID-19の影響がなければ、台湾に帰って、祖父の最後の姿を見ることができた。家族が最期を迎える前にそばにいることは、中華文化圏の人にとって、とても重要なことだと、彼女自身の口からも語っていた。

そこで、彼女は自分を責めながら、COVID-19が勃発した中国大陸に対してより深い偏見も持っていた。より深いと言えるのは、彼女自身が政治に非常に興味を持っている人であり、政治的意見を持っている人であり、特に中国大陸と台湾の海峡両岸の政治に対する問題については、彼女の原則がはっきりしているからである。

台湾の先輩は、自分が日本を出たら帰れないかもしれない、台湾へ帰りたくないのに帰らなければならないという複雑な心理状態の中で台湾に帰っていった。彼女は、仕事自体に影響を与えずに、毎日台湾でテレワークができることを会社に約束した。

テレワークのおかげで、台湾の先輩は確かに仕事ができて、毎日こつこつと業務をこなし、仕事は完璧にこなしつつも、効率的できめ細かだった。

しかし、台湾に入ると、彼女は家の中で隔離された状態になり、隔離のストレス、祖父の死の悲しみ、仕事の重圧が加わり、彼女はますます過敏で情緒不安定になって、遠く離れた場所にいる私に対して心にわだかまりを持った。私の仕事を彼女が手配してくれていたのだが、彼女は意図的に私の仕事をより少なくして、私が自分の能力を発揮できる機会を減らした。もちろん、私はいつも自分の能力をひけらかすことを気にしている人ではない。

最初は私もこのような処遇を受け入れることができていたが、その後、彼女が家に閉じこもって仕事をする日が長くなるにつれて、彼女の私に対する態度は、送られてくる文字と雰囲気の両方から感じられる感覚で徐々に明らかになってきて、私にもだんだんと彼女との対立が日に日に増進していると感じられた。

この時一抹の「嵐の前の静けさ」の予感があった。情勢が重大な変化の局面を迎える前夜の気配があった。

《五年》(十九)新しい仕事に就いて間もなくコロナウィルスに遭遇した

(十九)新しい仕事に就いて間もなくコロナウィルスに遭遇した

新しい仕事を探す時、私はExcelの表を作って、会社名、応募職、そして1次面接、2次面接と最終合格を通過した状況など、応募ごとの情報を記録した。

最終的に、私は4ヶ月の間に合計101社のポストにメールを送付したが、多くの会社からは返事がなく、応募した履歴書は海に沈んでしまった。

1次面接に合格したが2次面接に合格しなかった会社もあれば、その会社に合格したが最終的に私から断った会社も少なくない。私は現在、87社目に応募した会社で仕事をしている。

大阪にある専門職の事務所で、私が従事しているポジションは専門分野の翻訳兼オンラインマーケティングビッグデータ分析だ。高度専門分野の事務所は、その名の通り、仕事内容がかなり難しいことは間違いなく、専門用語にしても、業界内の複雑な制度にしても、容易ではない。同僚の多くは名門大学を卒業し、海外への留学経験もあり、専門分野の背景だけでなく、英語の聞き取り、読み書きにも精通しており、一言で言えば「エリート」達である。

入社したばかりの頃は、自分に少し自信がないような気がしていた。自分自身も優秀ではないことはないが、賢い人ばかりの中では、多少の言動や振る舞いにも気をつけなければならない。幸い、私の直属の上司はとても優しく、しかもとても辛抱強くて、私を助けてゆっくりこの仕事に適応させてくれた。彼はカナダの中学と高校に通って、英語のレベルがとても高く、しかも人柄はとても情熱的で、心の奥底に西洋人の活発な性質と明るい性格があって、すでにこの会社に勤めて15年以上、ずっと英日翻訳の仕事に従事している。

この部門はこの直属の上司が一手に創設した。彼は10年前に中国市場の見通しが明るいことを嗅ぎつけて、思い切って会社に直談判して、この主に中国市場を対象とした事業部を設立した。この事業部には私と直属の上司のほかに、台湾出身の先輩もいて、彼女はオーストラリアのある大学を卒業したマーケティング修士だ。英語は流暢だが、日本語のレベルはそれほど高くない。彼女はまだ日本に来て数年しか経っていないし、日本語も日本に来てから本格的に勉強した。しかし、彼女はとても賢い人で、学習能力が高いので、日本語のレベルはすぐに上達することができた。彼女もとても友好的で、辛抱強く多くのことを教えてくれて、私が会社に来たばかりの時の緊張や不安をなくしてくれた。

台湾の先輩や直属の上司には心から感謝している。

入社してから2020年6月まで、3人で毎日充実した日々を過ごし、楽しく出勤することができたのは、私が想像も体験もしたことのない居心地の良い職場だった。

しかし、しばらくしてすべてが変わってしまった。

2019年12月から発生源は不明だが、武漢から拡散したCOVID-19(コロナウィルス)は、ついに3月に大阪に目に見える影響を与え、本当の意味で我が社の出勤形態にも影響を与えた。

多くの日本の会社は、3月の緊急事態宣言の前には、普通に朝9時から夕方5時までの出勤制であった。しかし緊急事態宣言が発表されてから、多くの会社はテレワークシステムを導入した。私たちの会社も例外ではない。そこで3月から、私たちは続々と在宅勤務を始めた。

在宅勤務のメリットはいちいち挙げないが、試した人には自然と分かる。それがもたらすマイナスの影響についてお話ししたいと思う。私の仕事は同僚とのコミュニケーションを必要とする頻度が高いので、ほとんどすべてのタスクは同僚と協力しなければならない。在宅勤務後、皆が面と向かって話すことができない場合は、メールやSlackというツールを使ってコミュニケーションをとる必要がある。コミュニケーション時間は長くなるが、効率は面と向かって会話するほど高くない。

コミュニケーションの効率性は一番重要な問題ではないが、主な問題は、私と台湾の先輩との間で、お互いに会うことができないことから、いくつかの任務の処理の上で小さい誤解が発生した。彼女は私が彼女と競争していると思い、私は彼女が仕事の任務を手配する時にわざと私に制限をかけていると思いはじめ、ゆっくりと私達の間に微妙なばつの悪い雰囲気が発生した。

《五年》(十八)日本の運転免許証の取得

(十八)日本の運転免許証の取得

2019年8月には、神戸にある自動車教習所に登録し、日本の自動車免許を取得する準備をしていた。

2009年8月に天津で中国C1の免許を取得し、2012年にニュージーランドで現地の免許に書き換え、2016年に高松で日本の原付の免許を取得した。しかし、2019年になんと大学生たちと一から一緒に勉強し、一緒に免許試験を受けなければならなかった。

18歳の時に高校を卒業して、29歳の時にもう一度高校に入学して、39歳の時にもう一度高校に入学するみたいに、面倒であるだけでなく、ある程度荒唐無稽な感じがする。

心の状態をゼロにして、自動車教習所の要求通りに地道にやっていく。日本の運転免許試験の筆記試験の部分は非常に厳しくて、試験問題の大部分はわざと人に間違いをさせようとする落とし穴的問題だが、私は中国の国内で百戦錬磨の経験があるので、私の十分な試験経験をもってすれば、あれらの怪しい言葉遣いはすべて私の鋭い目を逃れることはできない。

実技部分では、普段車を練習する時、1台の車の中にただ1人の学生と1人のコーチという、1対1のVIP教習で、1時間の費用は約6000円と安くないが、依然として私が上海で英語を教えていた時に学生たちが払った学費より安い。日本の指導員はとても細かく、言葉で表現できる範囲を超えているので、「きめ細かさ」よりも「強迫症」と表現した方が適切である。

車に乗る前に、車の周りに人や動物がいるかどうかを確認する必要があり、ドアを開けると、ルームミラー、シート距離、背もたれの傾きの調節、シートベルトの着用の順序を覚えておく必要がある。エンジンをかける前にバックミラーで後方を目視で確かめるだけでなく、横を向いて肉眼でチェックしなければならない。ハンドルの握り方、ハンドルの動かし方、カーブでブレーキを踏むタイミング、ウィンカーを打つタイミング、車線変更で後方車両を観察するタイミングや姿勢、時速のコントロールなど。

車の運転ができる人も、車の中で指導員にこう指導されたら、心を落ち着かせることはできない。

往々にして1、2コマの授業を受けると、誰かに精神に苦しめられた後のように感じて、ぼんやりした。

日本の運転免許証の費用はとても高く、えげつないのは、その費用は通常学習者の年齢と一致していることだ。例えば、22歳の大学生の場合、彼の学費は22万円である可能性が高いが、30歳の人の場合、同じ課程だが、彼の学費は30万円である。入校時の納付金が30万円を下回っても、教習所はその金額を出させるように一連の操作をする。

例えば、第一段階の場内技能試験の時、明らかに自分のレベルで合格できると思っていたのに、コーチはおもむろにだめだと言い、そうなるとまた追加で補修を受けなければならない。通常この時、第一段階の授業時間はすでに消費していたので、1つの補修を追加するごとに約6000円以上を払わなければならず、これは学生にどんどんお金を出してもらおうとするある上海の塾の手法と同じだ。

腹立たしいのは、補習授業の時、一部の指導員は全く技能を教えず、代わりに車の中で学生と雑談している。何度も私は憤慨したが、文句を言うことができない状態にあった。だが結局我慢できず、ある指導員について学校に苦情を申し立てた。

一部の指導員は態度が温和で、一部はまじめで、一部はおしゃべりで、一部は氷のように冷たくて、天津の自動車教習所の指導員のように人を「アホ」と罵ることはないが、日本の指導員も特別優しいわけでもないし、いろいろな手口で十分に苛立たせる。

毎回授業の時、指導員はすべてランダムに割り当てられるので、本当に気まずい時が多かった。大多数の指導員とは、お互いによく知らない初対面となるからだ。

3、4ヶ月続けて、最終的に私は厳しい筆記試験と実技試験に合格した。筆記試験は一度で合格した。その中で自動車教習所での2回の模擬筆記試験はすべて満点を取った。受付のお姉さんと何人かの指導員は驚いていた。

運転免許を取った後、神戸を離れる準備をした。

神戸は本当に私にとって風水の良い土地で、私の「第2の故郷」だ。私は確かに神戸を愛している。神戸の都市建築も愛している。神戸の雰囲気も愛している。神戸の海も愛している。神戸の山も愛している。さらには神戸の起伏のある地形をも愛している。これは馬鹿にされたこともあった。神戸の起伏のある地形を愛しているのはどうしてそんなに変なのですか、とある人にからかわれた時に私は聞いたほどだった。

大阪に引っ越してから間もなく新型コロナウィルスが猛威を振るい、日本各地で相次いで緊急事態宣言が発令し、大阪の情勢も厳しさを増していた。

地下鉄の中の人はますます少なくなり、商店の門構えは閑散とし、あたり一面ひっそりしていて、惨憺たる様子だった。サラリーマンは続々と在宅勤務の日々を送り、通行人たちは次々とマスクを着用し、目つきが焦ったようになり、心が落ち着かず、慌ただしく出勤していた。

《五年》(十七)神戸の人たち

(十七)神戸の人たち

神戸での長くて短いこの時期は、たくさんの楽しい体験ができ、今思えば、懐かしい人々にもたくさん出会えた。

2018年3月2日、元町商店街の4階で孫さんと内モンゴルのお姉さんと知り合った。

延辺朝鮮族自治区出身の孫さんは、中韓日の3つの言語に精通している。留学中にアルバイトをして倒れるほど昼夜を問わず懸命に働き、生活費と学費の一部を稼ぐために苦労したという。幼い年齢で苦労を味わったという。

春の寒さのさなか、中華街からオフィスに戻ると、真新しい絨毯の上に暖房用の「小さな太陽」が2つ無規則に置かれていた。川田さんは痩せた肩に保温用の毛布を羽織り、中尾さんは太ももにきめの細かい毛布を置いていた。部屋の中は暖かさと心地良さであふれている。

私は腰を伸ばし、席で神戸牛の知識を勉強していたが、周囲は静まり返っていた。「ここに水がありますか?」私は口を開いた。「はい、水飲み機はそこにあります。」孫さんが質問に答えながらやってきて、私を水飲み機のそばに連れて行ってくれた。「お湯を受けるときは、コップの縁でスイッチを押し込んで」と、元気いっぱいに言った。

内モンゴルのお姉さんは日本に来て15年になる。モンゴル語の名前の発音と書き方はとても趣があるが、中国語の名前は少し「俗っぽい」感じがする。彼女は結婚相手を探していて、中国国内と、日本でもお見合いしたことがあるが、残念ながらすべて実らなかった。「独身貴族」の生活はのんびりしているように見える。たとえ結婚を切望する焦りを心に秘めていたとしても。

内モンゴルのお姉さんは孫さんの左側に座り、孫さんの右側に座っているのは「劉女史」である。

「劉女史」が「女史」と呼ばれるのは、彼女が私たちより何歳か年上だからではなく、彼女の気質と人格のためで、みんなが彼女を「女史」と敬称する価値があると考えるからだ。気の強い劉さんは中国の東北に生まれて、東北人のすべての長所がある。気前がよくて、豪快で、正直で、心が温かくて、義理を重んじて、彼女の一言には大変重みがあり、喜んで人を助けることができる。

この時の劉さんは妊娠中で、颯爽とした人格的魅力と威風堂々とした指導力で、社内のそれぞれにいる下心を抱いている数人の中国人達を団結させ、皆で順風満帆な時間を過ごさせていた。残念なことに、数ヶ月も経たないうちに、劉さんは産休を取って子供を産みに行った。彼女が子供を産んで帰ってきた時、私はすでに辞職意思を固めていた。私が会社で最も苦労し、エネルギー出力が最も密集していた数ヶ月、そしてみんなが争って騒いで、結局不愉快になって別れた時期に、劉さんは欠席していた。

川田さんによると、劉さんは心の中に「戦士」を纏っていて、とても負けず嫌いだという。劉女史の心の中には「仁義」があるような気がする。正義心があり、豪傑である。

社長と会社の多くの古い従業員にとても好かれている陳さんは福州出身の女性で、背が高くて、皆の中で唯一「大都市」に生まれた人だ。私は彼女を同僚であり友達だと思っている。しかしいつも一枚の壁のようなものが私達の間に横たわっていて、友情は深いものではなく、ずっとお互い遠慮があって、「浅い付き合い」の段階にとどまっている。

杜さんは台湾出身の女性で、温和できちんとしていて、身なりが美しく人好きし、ネットで知り合った日本人と結婚した。今どのように過ごしているか気になる。

李さんは台湾の女の子で、態度は穏やかで、善良そうな顔立ちをしていて、会社の宣伝ビデオの制作を担当していた。2回職を辞めて、東北出身の若い彼氏がいて、仲が良く、よく一緒に過ごしていた。その後台湾に帰って、その年下の彼氏と海を隔てて遠く離れてしまったので、少し切ない感じがある。

クールは、ネパールから妻を日本に迎えて娘を産んだが、やがて彼はサルコイドーシスという難病にかかった。サルコイドーシスとは、非乾酪性の類上皮細胞肉芽腫が臓器に認められる疾患である。日本にいたおかげで、先進的な医療技術が受けられ、治療できた。

ネパール人のアヌジは、肥えた体格で、他人に対する遠慮がなく、口が悪いが、根は優しい人で、内側は実直で爽やかな男の子で、外見は疑い深いハリネズミのようだった。

太ももに毛布を置いていた中尾さんには、16年間恋をしてきた中国人の彼氏がいる。彼氏はカナダに住んでおり、2人は年に2回会っている。

甲斐さんは、私の大恩人です。具体的に何の恩人なのかは、ここではあまり述べないが、私は彼を尊敬しており、人として好きな方だ。

留学生の劉さんは遼寧省の人で、素直で、仕事がすばやい。会社の悪名高い「豚の尻」とあだ名の付いた曲者のおばさんをも簡単にあしらうことができる。「豚の尻」は彼女の日本の苗字に由来したあだ名だ。「豚の尻」はいつも新人や若い女の子たちを叱るが、劉さんの前では見下した態度で叱る勇気がなかった。劉さんのあの毅然とした態度は、「豚の尻」の「手強さ」をもかわすことができた。

留学生の王さんは雲南省の人で、顔は可愛らしくてきれいだが、幼い女の子のようで、おしゃれだった、一言では言い表せない心に残る美しさだ。王さんは頭がよく、初めてのビザ更新ですぐに5年間ビザをもらった。

留学生の徐さんは遼寧省の人で、自分の生活をよくするだけでなく、遠く中国にいる家族を助けている。内心は毎日困難に立ち向かっているが、外見は立派なお嬢様のような顔をしている。

徐さんが「半留学生」と呼ばれているのは、彼が学んでいるのは日中合同学校のような所で、2年間は中国の国内で、2年間は日本で勉強するからだ。彼が数年前の写真を送ってきた時、私は彼がハンサムな若者だったことに気がついた。「太った人は潜在力のある有望株だ」という中国のことわざを再び実証した。

安定して肉を焼き、淡々と仕事をする「楽兄さん」は、私より年下だが、彼の気質は自然と「兄さん」と呼びたくなる。彼を言葉で形容すると、純粋で、穢れがなく、争いを好まず、勤勉で、着実だ。

会長の婿の弟である祐哉、はっきりとした眉と目を持ち、立体的な輪郭のハンサムな顔をしている。かつて北京から来たドラマプロデューサーが食事に来て、祐哉を見てハンサムだと褒めていた。彼のハンサムさは確かに公認されているかもしれない。皆がハンサムだと褒めたがるのも、ハンサムであるだけでなく、親しみやすく、愛想がいいからだ。

光クラブの隣には中国人が経営する居酒屋がある。主人は福建省出身の女性で、毎晩街で商売をしている。よく日本の若者とトラブルを起こす。トラブルが発生するたびに、その光景は思わず笑わずにはいられない。彼らはお互いの意見に固執し、互いに譲らず、時には警察を呼ぶ場面もあり、この場合は笑うべきではない。

神戸には、前述の展示会で知り合った日中ハーフのイケメンである徳島さんがいて、上海人の母親と日本人の父親の間に生まれ、中国語と英語を流暢に話し、ユーモラスで面白く、礼儀正しく、あらゆる面で手際よく対応し、神戸で顔が広い。コロナ発生後、会社を辞めて起業し、将来は神戸の一大企業家になるかもしれない。

徳島さんが紹介してくれた友人の中に、同じ年頃の人がいて、地元が高松というのも縁のようだ。温厚で人当たりが良く、何度も一緒にバーに行ったことがあり、「飲み友達」の中では一番の部類に入る。酒に飲まれず、人におごらせないで、お兄ちゃんのような存在だ。

神戸には、山名さん、長瀬さん、江口さん、五島さん、米田さん、宮下さん、仲地さん、伊奈さん、亀田君、大杉さん、山田さん、宗村さん、市川さん、植岡さん、泊さん、藤村さん、建元さん、清水さん、斉藤さん、晃平さん、松野さん……

ここでは一つ一つ挙げないが、誰もが物語を持っていて、誰もがユニークだ。  

私は皆と一緒に過ごした時間が懐かしい。

《五年》(十六)好きな仕事を辞める

(十六)好きな仕事を辞める

3月、春は暖かく花が咲き、冬を乗り切って、すべてが蘇ってきた。「嫌というほどの苦しみをなめる」と言うほどではない。二人の中国人従業員から受ける悩みを除けば、日頃から面白いお客さん達と触れ合い、世界中の逸話やエピソードを知ることができるのは爽快だ。

冬の「苦しい時期」に、私は部門の他の2人の英会話ができる同僚と「VISIT JAPAN Travel Mart 2018-ASEAN・INDIA-」大会に参加した。大会で私は日中ハーフのイケメンと知り合った。彼の大学の同級生の中学校時代の同級生はなんと私の日本の親戚だ。この縁は、本当に奇妙だ。

神戸の素晴らしいナイトライフを教えてくれたり、友人を紹介してくれたりして、私は純正な日本の若者たちの付き合い方に触れるようになった。全体的に彼らは礼儀正しくて、親近感を持った遠慮があって、まず相手への尊重を第一に置いて、冗談や軽口、あるいはふざける行いは必ず熟考して実行しなければならないのだ。イケメンの何人かの大学の同級生らと一緒に、何度か神戸のバーに行って、初めて日本の夜の生活を感じた。

2019年3月、「鉄板焼」を習いたいと思い始めた。料理人がナイフやフォークを振り回すのを見るたびに、かっこよくて面白そうだと思い、自発的に応募して、本部の料理人の訓練クラスに参加した。手順から包丁の使い方、食材から調味料、身だしなみからお客さんとのインタラクションまで、すべてが揃っている。私は「鉄板焼」を覚えて、しかもお客さんの前で本格的に何回も実践した。最初の緊張から徐々に熟練してきて、お客さんとしゃべりながら、手に持っているヘラや包丁を振り回すことができるようになった。

鉄板焼」の付け合せといえば特別なもので、神戸牛ステーキと合わせた「赤いこんにゃく」は、多くのお客さんが血と勘違いしていた。近江八幡市の特産品とされる赤こんにゃくは、滋賀県全域で食べる習慣があり、三二酸化鉄という食品添加物が添加されており、こんにゃくを赤く色づかせるほか、食物繊維やカルシウムなどの栄養成分も豊富に含まれている。

数ヶ月待った後、私の日本の居住許可が正式に承認され、平成の最後の月に間に合った。許可が下りた以上、新しい仕事を探すことができる。

この会社は決して悪くはなく、仕事の内容も嫌いではないが、しばらく考えた後で、結局私自身のキャリアの方向性とあまり相性がよくなかった。日本に来てもうすぐ3年が経つが、居住許可と日本語の制限のため、本来のキャリアの方向を逸脱した職業に従事しなければならなかった。

もちろん、これらの仕事が悪いと嫌っているわけではない。一つ一つの仕事に感謝している。一つ一つの仕事は、私の人生に取って代わることのできないものを与えてくれた。

就活を始める段階で、私は一つのレストランの名前を言及しなければならない。「天望」だ。最後の3か月間、私はここでとても楽しい時間を過ごすことができた。通訳や鉄板焼きの手伝いに行く機会が多かった。天望の「秘密の小部屋」は店の一番奥にあり、約8平米で、プライバシーが守られ、Wi-Fiがあり、エアコンがあり、ドアには鍵がある。ドアに鍵がかかっていたら、自分一人、又は利用者数人だけの世界になる。私の新しい仕事はこの「秘密の小部屋」で見つけた。

2019年7月31日、ついに退社の日を迎えたが、この会社や三宮に、あまりにも名残惜しさを感じ、最後に「天望」から出てきた時は、恋恋の情のような気がした。

私達は皆多くの人に出会い、多くの人に別れを告げ、引き続き前に行くことができる。時には誰かをとても好きになることができて、時には誰かを失うかもしれない。仕事も同じで、人生は1回の旅で、出会ってまた別れる。一期一会だ。仕事を辞めたからといって、仕事が悪かったり不満があったりするわけではなく、時間が経つにつれて、次の人生設計には、その時の自分の心境と境遇に合った別の仕事が必要になるだけなのだ。