《五年》(十五)職場のいざこざ

(十五)職場のいざこざ

面接して採用してくれた川田さんは辞職して独立した。季節の食材、新鮮な魚、選りすぐりのワイン、独自開発のソースを使ったイタリア風の和食レストランをオープンした。一人当たりの金額が高いので、ずっと応援に行こうと思っていたが、なかなか行けなかった。川田さんは辞める前に観光クラブのリーダーにネパール人のクールを任命した。

立体的で整った顔立ち、濃い眉毛の色、がっしりしたかっこいい体格で、多くの日本の女性が彼を気に入っている。しかし、良い外見があったのに、その能力と素行が人を服従させるのに充分ではなかったので、皆はますます不満を募らせた。中国籍の従業員たちは団結して、7月24日の会議で意見を出し合い、彼をリーダーのポストから引きずり下ろした。彼のリーダー職に代わったのは入社して4ヶ月未満の私だった。

私にとっては挑戦であり、鍛錬であり、能力向上の過程であり、「大砲の餌食」となる時間の始まりでもあった。

部門内の数人の中国人と2人のネパール人は分裂していて、犬猿の仲で、会社はもっと中国籍の従業員を必要としている。収入の大部分は中国の観光客から来ているからだ。しかし2人のネパール人は会長にすり寄って、少しも遠慮しない。会長は仏を信じ、ネパールはお釈迦様の生誕の地であり、会長は二人を「掌中の珠」と見ており、月に一度のお参りでは必ず二人を呼び、時々大阪の店を回って彼らの存在感を築いたり、ごちそうしたりすることが多い。

私は中国籍の従業員とネパール人の間に挟まれた形になった。ネパール人とは真っ向から対立するほどではなく、中国人とは肝胆相照らしている。私がクールのポジションを担い、観光クラブのリーダーになったので、皆のシフトを組むことになった。シフトを組むのは難しいことであり、厄介なことでもある。できるだけすべての人に満足してもらおうと知恵を絞らなければならない。誰かの遅番を何日も多く組むと、不満の声が上がってくる。

部門内には二人の中国籍の従業員がいたが、仕事のパフォーマンスがよくなくて、サボったり、携帯電話をいじったり、文句を言ったりして、川田さんが独立する前に観光クラブから追い出され、二人はレストランの現場に行くように手配された。「もし彼らがこの配置を受け入れることができれば、大人しく通訳のできる店員になり、受け入れられなければ、自発的に辞めてください」という意味を暗示している。

川田さんが去ると、2人は開き直ったように見えた。私がリーダーになると、彼ら二人は私に元町に配属してくれと言い、三宮の観光クラブにはもう来たくないようだった。観光クラブの仕事は楽ではなく、毎日業績のプレッシャーがあった。元町では自由自在で、オフィスの中でエアコンで涼んだり、パソコンで遊んだりすることもできる。しかも、観光クラブから弾かれた当初の仇を討ちたい気持ちもあったのだ。

九月か十月の頃、二人は遠回しに三宮に来ることを断っていたが、元町での仕事が長くなるにつれて、4階の事務室にいた日本人の同僚数人と親しくなり、川田さんの後を継いだ日本人にすり寄るようになって、腰が重くなり、強硬に三宮に来ることを拒否するようになった。

彼ら二人の仕事ぶりがどうであれ、心の中では友達だと思っていたのだが、この時は友達に裏切られたような強い気持ちがした。11月のある日、観光クラブの2階のラウンジに横になっていた私は、彼らが自分たちのシフトを組むのに都合がよくするために私をリーダーに押し上げてくれたのではないかとふと気がついた。  

私はリーダーとして、毎日の業績のプレッシャーを背負って必死に働き、川田さんが去った後に彼のポストを引き継いだ日本人同僚の下で悔しさを抱き、ネパール人の前で気力を保ち、一方ではまだ公には仲たがいしていない中国人同僚の気持ちを配慮し、彼らに合わせてスケジューリングしなければならなかった。

難しい!ついに、来るべきものが来た。

そしてこのような勢力争いの中で、皆はついに本性を現した。数人の中国人従業員との上辺だけの「和気あいあい」が消えてからは、あからさまな茶番劇だけになってしまった。

冬の夜、屋外で身を切るような寒風の中、朝10時に職場に立ってから夜22時までの心身の苦労の中で、私は彼らの心を徹底的に冷やした。

リーダーが備えるべき「心の強さ」、「組織力と協調能力」、「全体を掌握する能力」、「民主的な意思決定能力」、「強力な実行力」、「オープンな思想と心理状態」、「継続的な革新の理念」などの素質については、自分は一部を持っていて、一部が欠けていると感じていた。

このリーダー経験は失敗したが、自分の能力を鍛えることにはなったのではないか。

「職場の友達」については、ある人が私にこんなことを言ったことがある。「あなたとあなたの同僚たちは仕事上での接点にすぎないのに、どうしてあなたにご飯をくれる場所であなたと一緒にご飯を食べる人を探しているのですか?」

私は今この言葉がとても理にかなっていると思う。

《五年》(十四)ハネムーン期

(十四)ハネムーン期

ここでいう「ハネムーン期」とは、私とこの仕事とのハネムーン期のことを指す。

入社したばかりで、すべてが新鮮だった。3月1日9時18分、歩いて本社に行って初出勤した。山と水に囲まれた神戸、あでやかでエレガントな街の景色、高低起伏の地形、空気の中に海水の淡い塩辛い味が充満していて、艶やかな太陽が高く照りつけて、そよ風が心地よく吹いて、気持ちは少し緊張しつつも、期待も入り混じっていた。

各書類に記入した後、中華街にある大型レストランの3階に連れて行かれた。そこには会社の大型会議室がある。入社訓練が始まった。5時間の「神戸牛」知識の注入を経て、神戸牛については大まかな認識を持つようになった。訓練が終わった後、元町と三宮の主要店舗に行って、一人一人に挨拶をし、自己紹介をした。

それから1ヶ月間、毎日午前中にこのレストランで研修をしていたが、一線で戦って収入を生み出すため、その業務内容を必ずよく知っていなければならなかった。飲食業は、結局「客」を離れることができなくて、接客の一挙手一投足、顔の表情、服装の清潔さ、髪の衛生さ、基本的な歩き方、標準的な動作、会話の礼儀、接客用語、お茶・酒を注ぐ姿勢、料理を出したりお皿を下げたりするタイミング、やり方など、すべてしっかりと身につける必要がある。

Hospitalityは、大きな学問であり、見た目には簡単そうに見えるが、その要領はなかなか得られない。本部の梶という人が、私たちを監視し、叱ってくれることがよくある。

毎朝出勤するとき、部署やレストラン単位で、みんなが輪になって会社宣言を読む。日本語ではこれを「朝礼」という。元気いっぱいの情熱的な発言は、その日の自分の仕事内容を簡単に述べ、自分の高揚した闘志を示すことで、目を覚まし、自分と同僚を元気づける。「朝礼」には魔力があって、空気が抜けたボールはたちまち膨らみ弾ける感じがする。多くの場合、私は朝礼に抵抗を覚えていたが、一つ目の原因はその時自分の日本語の口語があまり上手ではないと感じたからだ。二つ目の原因は時には雰囲気が張りつめていて、自分が話す内容を事前に準備していなかった時など、内心いつもびくびくしていた。

1ヶ月間の研修を経て、4月1日、正式に観光クラブに「出向」された。「出向」となったのは、三宮にあるので、元町の部署から少し離れているからだ。行ったばかりの4ヶ月間、意気込みは十分で、熱意に満ちていた。「見込み客の可能性がある」人物が5メートル以内に現れると、すぐに声を上げ、英語+中国語+日本語で、相手に応じて言語モードを切り替えて声を掛ける。店に連れて行くことに成功すると、心が明るく爽やかな気持ちになる。心の中に甘く、凉しい風が吹いているようだった。些細なことであっても、ある程度の達成感と言える。

当時は本気で仕事を愛し、楽しんでいた。頭の中には「できるだけ多くの人を説得するために全力を尽くす」という考え方しかなかった。力を入れすぎて、隣のライバル店のおばさんに意地悪な目でにらまれることがよくあった。ある時、二人のフランス人が隣の店の前に立っていたが、私たちの方を見ていた。私は彼らに手を振って、カウンター越しに話かけた。距離が足りないので、思い切って出て行って、彼らのそばに寄って話をしていると、中国の有名な時代劇の悪辣なおばあさん、「容嬷嬷」に似たおばさんが私の後ろで叫んだ。「何をしているの?」

ここ数ヶ月、忙しいが充実していて、穏やかで楽しかった。仕事の情熱は満ち足りていて、業務の中で自分の長所を発見し、自分の短所も理解した。最も重要なのは他人に利益をもたらすことを感じ、相手に価値を提供することができる時、他人が楽しいので自分も楽しいと感じたことだった。

《五年》(十三)こんにちは!神戸牛

(十三)こんにちは!神戸牛

神戸に引っ越してきて、一日休んだ後、すぐに新しい仕事を始めた。新しい仕事は神戸牛と関係がある。

「神戸牛」とは一体何なのか?

神戸牛は日本の黒毛和牛の一種で、正式名称は「神戸肉」または「神戸ビーフ」で、出荷時に神戸肉流通推進協議会から但馬牛に与えられた栄誉称号であり、ブランド名であり、動物名ではない。

生育環境、血統、肉質などの面での厳格な要求を達成しなければならず、子牛の繁殖、肥育、出荷、格付まで、すべての段階で非常に厳格な基準がある。具体的な基準はここではあまり説明しないが、皆さんはネットで調べることができる。ここでは神戸牛の権威ある機関のサイトを明記する。興味のある方は詳しく調べてもらえる。

http://www.kobe-niku.jp/top.html

神戸牛は世界的な名声を得ており、口当たりが柔らかく、口に入れると溶ける様なお肉なので、大量生産はできない。日本は神戸牛の品質に対する選別が非常に厳しく、様々な要素の総合で神戸牛の「貴重さ」が達成される。

私が勤めているこの会社は一言で言うと、世界最大の神戸牛グループで、生産者である牧場との提携から末端の消費者に至るまで、数十軒の高級レストラン、手頃な価格のレストラン、お茶屋、スイーツ店、カフェ、カレー屋などを経営している。

私の部署の役割は、総じて神戸牛ブランドを広めることだ。特に海外市場向けであり、海外からの訪日客向けである。

具体的には、中国語、英語、日本語のあらゆる媒体の翻訳、パンフレット、看板の翻訳と制作、ビデオ字幕の翻訳、メニューの翻訳、現場通訳、神戸牛の知識に興味のあるお客さんへの講座などに細分化されている。営業部分では、国内外の旅行会社各社との連絡、SNSのプロモーション、各種イベントの開催などがある。

ブランディング部署には顧客サービス部と観光クラブがあり、オフィスにいないときは普段からクラブにいて、相談に来た外国人観光客に神戸観光情報や神戸牛レストラン情報を提供している。部署内の一部の中国人の中には、会社のレストランで現場通訳をしている人もいる。会社のレストランは収入を生み出す第一線のポストであり、ブランディングであれ、カスタマーサービスであれ、観光クラブであれ、最終的にはレストランに利益を実現させる必要がある。

神戸ビーフ鉄板焼、すき焼き、石窯焼き、しゃぶしゃぶ、せいろ蒸し、焼肉、寿司、ハンバーグなど様々な調理法があり、それぞれに独特の食感がある。 

そして2018年3月、会社を「誇りに思う」という気持ちで、この大手グループでの仕事を始めた。当時の抱負は本当に神戸ビーフを世界に広めたいということだった。

神戸ビーフは確かに素晴らしいものだから。

《五年》(十二)神戸に引っ越す

(十二)神戸に引っ越す

2018年2月6日、高松からバスで神戸へ。

ネットで連絡した仲介会社を見つけると、仲介会社のお兄さんが車を走らせて間取りを見たいと予約していた部屋を案内してくれた。山の斜面の1階にあるアパートだった。パソコンで平面図を見ると、まあまあのようだが、唯一疑問なのは、オンラインの写真では窓が見えないことだ。

仲介会社の木下さんは1995年に、阪神大震災の直後に生まれた。無表情で、神戸各区の治安から来月結婚することまで、口ではおしゃべりが絶えなかった。

日本で部屋を見るのは、中国のように歩いたり、せいぜい仲介業者の原付バイクに乗ったりするのではなく、こちらでは仲介業者の人が車で連れて行くことが多いことを知った。寒風吹きすさぶ冬も、炎天下の猛暑も、体感快適な車の中でゆっくりと、選んだ部屋を見ることができる。

木村さんが第一軒目の部屋を案内してくれた。山の中腹に車が止まり、きれいで静かな階段を上ると、4階建てのビルが目に入り、「ネットに書いてある5階建てのマンションではないか」と胸がどきどきした。近づいてよく見ると、地下に半分埋まっている階があった。

ビルは山の中腹にあり、1階の片側には2つの窓が開いていて、反対側は完全に丈夫な土壌に密着している。困ったことに、窓のある側の向こうの反対側にもう一つのビルがある。そのため、入ってくる光は極めて少ない。真っ昼間、中に入ると、一瞬にしてどこかの洞窟に落ちたような感じがする。北京の地下室に比べて、少し恐怖と怪しい雰囲気が増している。何といっても、この反対側は土なのだ!

もしかすると、不吉なものが壁の反対側に隠れているかもしれない。何て怖いんだ!そこで、慌てて断った。

部屋を出ると、太陽の光はオレンジ色のワインのように透明なエメラルドのコップに注がれ、空気は水で洗われたように冷たく、草の香りがした。何て明るい日なのか。でも、美しい景色を見に行く時間がないので、急いで次の部屋を見に行った。

木下さんの会社に戻った後、私たちは彼の会社のホームページで物件を検索して、1時間後、受け入れられる範囲内の4、5件の選択肢があったので、急いで行って1つ1つを探った。私たちに残された時間は多くなく、夜はバスに乗って高松に帰らなければならない。

幸いなことに、この4、5件の選択肢の中から、部屋を見つけることができた。神戸市の中心部、阪急駅近くにある居心地のいい小さな巣だ。

高松の家は、家具がそろっていて、自分で神戸に引っ越してくるのは無理な話だった。日本では、たとえ仲の良い友達であっても、ほんのわずかな労力でも、簡単に相手を煩わし手伝ってもらうことは少ない。日本人の目には、正当な理由や特別な理由がない限り、すべて「相手に迷惑をかけること」だと思う。

そこで私達は全国チェーンの引越会社を探し、従業員は私達の家に1回様子を見に来て、品物の物量によって、見積した。私は中国の引越会社と比較すると高すぎると思ったが、日本市場の相場の価格に符合した値段だった。

引越業者から引越専用の段ボール箱を十数個渡してもらい、小物をすべて自分で梱包し、引越貨物車が来た日は引越業者の従業員が大きな家具の搬出を手伝ってくれた。こうして一つの家が高松から神戸に完全に移された。引越会社のサービスを言葉で形容すると、専門、細心、最上だった。

2018年2月26日、高松の家で軽く食事をした後、暖かいバスの車内で2時間以上もうとうとと眠り、目が覚めると三宮に着いた。JRで仲介業者まで部屋の鍵を取りに行き、三宮に戻り、神戸高速線で花隈駅下車、上り坂を歩いて新居まで。小さい家は5階建ての洋館の4階に位置して、見るのは2回目だが、依然として感動があった。赤レンガ色の外壁は青々とした大木の後ろに映えて、静かな廊下は茶色の防水床を合わせており、プライバシーが良いだけでなく、洋風の趣を漂わせていて、構造は簡潔でさっぱりとし、全体的に自然で調和がとれている。

部屋に入ると、しばらくしてWiFi設置会社の人がやってきて、畳の上に腹ばいになってルーターを調整した。その後、ガス会社の若者もドアをノックして入ってきて、ガスパイプとガスコンロをつなぐ金属のバックルを持ってきた。動作がすばやく、無料で新しい湯沸かし器を交換してくれた。

日本各地のガス事業者やガスの使い方には違いがあり、高松ではマンションの外にガス会社が定期的に運んできた大きなガスタンクがあり、使い切りそうになるとガス会社が新しいガスタンクを持って来てくれる仕組みだ。神戸のガスは都市部の集団ガス供給タイプで、パイプラインで各家庭に送られ、使用量に応じて費用がかかる。前者の方が後者よりも高くなる。ガスだけでなく、ガスコンロや配管も千差万別で、新居のガスコンロは高松で神戸の基準に合わせてあらかじめ用意して持ってきた。

この部屋の位置は交通が便利で、階下には桜の花がいっぱい植えられた小さい公園があり、都会の喧騒の中で静けさを取るのにちょうど良いところだ。神戸の山健組本部は、家のすぐ隣、20メートルほど離れたところにある。ここでは数年前に手榴弾事件があったそうで、今でも度々スーツ姿のメンバーたちを見かける。

この一帯のある家の1階の窓はすべて防弾ガラスで覆われており、山健組本部ビルは丈夫な鉄筋コンクリートで建設されており、周囲には多くのカメラが設置されていて、多くの緑が植えられている。

なんとも暗雲とした雰囲気だが、伝説ほどの恐ろしさは全くない。

《五年》(十一)神戸での面接

(十一)神戸での面接

2018年1月17日、高松空港勤務最終日。

穏やかな一日で、みんなに別れを告げると、名残惜しかった。いずれにしても1年半近く働いた場所で、しかも日本での初仕事の場所で、笑いも愚痴もあり、楽しみもあり苦労もあった。

2017年12月、ネットで神戸にある会社を探したが、現在欠員状態の本社直属のブランディング部の募集を見つけた。

神戸といえば、避けられない話題の一つは「神戸牛」である。世界第一の貴重な牛肉と言われているが、すでに世界中で偽物が出回っており、世界各地の人々が神戸に来ているのは、神戸牛を一口味わうためだけであると言っても過言ではない。

この会社のブランディング部には、主に外国人向けの相談センターがあり、神戸の観光地をPRしながら、自社の神戸ビーフレストランを勧め、相談に来た外国人観光客と気軽に会話しながら自社のレストランを訪れさせようとしている。そのためには、本場の中国語と英語を話せるスタッフが必要とされている。

日本に来たばかりの時、上海では一年ビザを取っていたので、高松でビザを更新する時、もし三年ビザが取れたら、高松市に落ち着いて、日本の居住許可を申請したいと思っていた。残念ながら計画は失敗し、更新後も一年ビザのままだったので、チャンスを逃さず神戸に向かった。

神戸は国際的な港街であり、高松よりも仕事の機会が多い。しかも、高松でビザを更新した時、審査官の表情によっては、来年も一年ビザになるような気がした。そこで,いっそ陣地を移動すれば良いのではないかと思った。

2018年1月23日、四国バス会社のバスで神戸市の三宮にやってきた。バスを降りて、歩いて面接に行った会社は、元町商店街のビルの四階にオフィスがあり、神戸中華街と壁一つ隔てていた。私は階段を四階まで登ってドアをノックすると、背が高く、長い髪のストールをした女性がドアを開けた。私が来意を説明すると、招き入れ彼女は私を部屋にた。私は長い会議のテーブルのそばに座ってしばらく待っていた。

約10分後、かくしゃくとした小柄で精悍な男性がやってきた。面接、採用、そしてその後直属の上司になった川田さんだった。川田さんはもともとシェフで、若い頃にレストランを経営し、東京でも就職したことがあるが、数年前に神戸に帰ってきて、この神戸牛の会社に勤め、神戸牛ブランドのプロモーションやビジネスパートナーとの商談を担当している。

彼はまず私に自己紹介をさせて、それから一つ一つ私の前の仕事の退職理由と今後のキャリアプランを聞いた。この部分は多くの面接官と同じだった。仕事の内容について、私は自発的に彼にいくつか質問をし、彼は熱心に私に説明してくれた。彼はコンピュータを持ってきて、PPTを開いて、一部始終、弁舌軽やかに述べた。

最初、私は作り笑いを浮かべながら、しきりにうなずいて相槌を打ち、礼儀を示した。驚くことに、彼はとめどなく、堂々と2時間余り話したので、私の頭はめまいがしてきて、笑顔も硬くなって、眠気がひっそりと襲ってきた。しかしこれは結局面接で、私は絶えず自分に眠くならないように注意して、背筋を伸ばして、我慢した。

川田さんは私の給料の希望と私の英語名の由来を聞いた。英語名は自分が「勝手」に選んだと答えようと思ったが、「勝手」は日本語で表現すると「無作為」であったが、実際はその時頭の中で浮かんだ「不細工」と言ってしまった。発音は似ていても、意味は大きく異なる。口を開くと、屏風のうしろに座って、ドアを開けてくれた女の人が、「うわー」と大笑いした。私自身、どこかおかしいような気がして、笑ってしまった。

歓声と笑い声の中で面接は終わったが、川田さんは面接結果をメールで知らせてくれると話した。次の日、昼まで寝て、起きてメールボックスを開くと、この会社からの採用メールがあり、給与待遇、職務、入社に必要な資料などが数行で簡単に紹介されていた。

仕事が決まったら、家を借りて引っ越すだけだ。

中国では、家を借りるには、身分証明書1枚、敷金を払って、二言三言で済ませるだけだ。だが日本では、家を借りるには手続きが煩雑なだけでなく、かなり時間と労力がかかるし、「審査」を経なければならないことがわかった。

《五年》(十)様々な同僚たち

(十)様々な同僚たち

レストランには13人の同僚が常勤している。

小林さんの家族は4人で、夫は清掃会社の社長をしていて、末っ子は近くの車の販売店の正社員で、長男は同じ空港店で働いていて、4人ともタバコを吸ったり、酒を飲んだりしている。小林さんは毎日20時に退勤した後、通例としてビールを6缶とタバコ半箱を享受する。煙を吐く中でYouTubeの動画を午前3時まで見て、2時間寝て、午前6時に出勤してくる。

レストランの従業員13人のうち、毎月の納税基準を満たしているのは4人だけで、残りの9人は主婦や在学中の学生だった。

小林さんは従業員に少しも暇な時間があってほしくなくて、刻々と体を働かさせ、もし手元の仕事が終わったら、床やガラスを拭かせ、ホールに本当に仕事が見つからなかったら、台所の手伝いに行かせ、味噌汁の材料パックを交換させたり、唐揚げを揚げさせたり、或いは白菜の千切り、大根の千切りを切るなどさせた。

小林さんが担当するシフトのアレンジメントについては、日本の労働法では、従業員の連続勤務時間は5時間を超えてはならないと規定されているので、朝6時から夜20時までのシフトがあると、途中で複数の休憩時間が設けられている。

途中休憩時間の開始・終了・回数は事前に知ることはできず、店内の繁忙度によって決まる。休憩時間は朝9時から11時まで、午後14時から16時までとすることが可能だ。1日に計算すると、実際に労働時間は最大8時間を超えず、場合によっては4、5時間しかない。

小林さんはとても厳しいが、客観的に見る場合、彼女の長所も見落としてはいけない。例えば仕事が速くて、口がうまくて、自信があって、社交的だ。時には下ネタを披露して爆笑させることもある。丁寧に挨拶すべき時は丁寧に挨拶し、さりげなく振舞うべき時はさりげなく振舞う。

これも日本人の「素質の高さ」の表れの一つかもしれない。

小林君は小林さんの息子で、2015年に高校を卒業した後、近くのガソリンスタンドで半年間働き、近くのレストランで3カ月間働いた後、この空港店に来た。ガソリンスタンドで働いていた時、彼の当時の同僚の母親は当時この空港店の副店長で、当時小林さんはちょうど仕事を探していて、この店はちょうど人手不足だった。小林君の同僚の推薦を経て、小林さんはこの空港店に入り、その後、前の副店長は職を辞して、小林さんが上位になった。

小林君は車が好きで、ゲームが好きで、寝るのが好きで、食べるのが好きで、女性を追求するのも好きだ。ネットで冲縄の女性を追いかけて、わざわざ冲縄に飛んで相手の両親に会いに行って、相手を高松に招待して、自分の両親に会わせた。その後、その女性は神奈川県の専門学校に通い、一緒に暮らしてほしいと誘われたが、小林さんに止められて行けなかった。

小林君はおだやかで、私が店で働いたばかりの時、英語を交えて日本語を教えてくれ、仕事や日本の社会生活の中でたくさんの知識を教えてくれた。ユーモアがあって、大胆で自信があって、仕事に対して責任感を持って頭脳が明晰だ。

47歳の竹内さんはプロの料理人で、料理人専門学校を卒業して、ずっと料理人の仕事をしていて、一度離婚したことがあるが子供はなくて、両親と同居しており、家はラーメン屋を開いていて、ここのアルバイトは副業だ。私が来たばかりの頃、竹内さんは私に厳しく、汚れたコップはどこに入れるのか、ホールのゴミはどの袋に入れるのか、使用済みジュースケースはつぶすのか、皿を重ねる順番、豚丼のソースはどのくらい入れるのか、とんかつのサラダの積み重ねの形、サンドイッチの切り方などを事細かに、詳しく教えてくれた。

64歳の内原さんはこの店で10年間働いていて、独身主義の長男と一緒に住んで、毎日朝6時から午前11時までの仕事を終えた後、家に帰って農作業をする。彼女は広い畑に野菜を植えていて、いくつかの菜園があって、健康な体と楽観的な性格は彼女に現在の仕事に余裕を持たせた。彼女は中国の文革時代の歴史をたくさん知っていて、高松の歴史についてもたくさん話してくれた。若い頃は工場で働いていたが、運転技術は一流だった。60代になっても、車をバックして入庫するのは朝飯前だった。

1997年生まれの大学生斎藤君は台所でアルバイトをしている。ネギ切り、ポテトフライ、麺ゆで……家は空港から車で5分ほどのところにある。斎藤君は立派な顔立ちをしている。細かく砕けた長い髪がつややかな額を覆って、ふさふさとした細いまつげの上に垂れ下がり、目尻が少し上がっている。純粋な瞳孔と美しい目型が奇妙に融合して美しい風情を醸し出している。薄い唇には放蕩な微笑がにじみ出ている。かっこよく、可愛らしく、英気に満ちて、魅惑的だ。

斎藤君は陽気で明るく、ゲームが好きで、韓流文化が好きで、小さい頃から郊外で育ち、シンプルで単純で、頭の中に不正なものがなく、彼自身の話では、高校の時に一度恋をしたことがあるという。しかし、私が後に日本人と付き合った経験によると、多くの男性は自分の女性に対する魅力を誇張するのが好きで、たとえ手をつないで、口がまだ触れていなくても、相手を自分のガールフレンドと呼んでいる。

彼らは「彼女」の概念を何か誤解しているのではないだろうか?

斎藤君の食欲はとてもよく、口に入ったものは、胃にのみ込む前から、そのおいしさをほめるのを待ちきれず、ラーメン、チャーハン、フライドポテト、とんかつ、うどん……彼の大げさな表情と口調は、食欲のない私も食欲をそそることがある。

六宏さんは45歳で、肌は透き通っていて、少しも皺がない。夫は近くのガソリンスタンドで働いていて、一男一女がいて、山の中腹に自分の家を持っている。夏には、家の浴室から市街地の花火を見ることができる。六宏さんは2つの仕事を兼ねており、厨房の大黒柱の1人であることに加え、美容院のマッサージ師でもある。

六宏さんは私の認識の中の典型的な日本の中年女性のタイプの1つで、人に接するのは礼儀正しくて、「ありがとう」と「申し訳ありません」をよく口にして、仕事はまじめで、精力は永遠に満ちあふれて、時には十数日連続して休むことがない。台所にいても、六宏さんは片時も暇がなかった。カキフライ、とんかつ、煮込み、牛丼の煮汁、ネギ切り、人参の千切り、漬物の盛り付け、味噌のすり替え……具材がそろったら、水槽を掃除し、油のしみを拭う……

空港のオフィスでは時々彼女が自分から話をしてくれた。私は彼女になぜそんなに一生懸命に2つの仕事を兼ねるのかと尋ねた。彼女は住宅ローンがまだ返済されておらず、娘はまだ中学校に通っており、もし今後娘が大学に進学するとしたら、学費も相当な支出になると言った。

六宏君は、背が高く、たくましく、声が厚く、動作が遅い。一人が二人分に換算されている日本の飲食業界では、手際が悪いと厳しく責められる。

空港店の特徴は、同じ便の人がフラっと入店することもあれば、フラっと出たりすることもある。厨房係の手足の速さやレジの速さが重要で、厨房が一人でも一糸乱れず料理を提供しなければならない。本当に忙しくなってくると、注文書を印刷する台所の機械が、真っ白なメモを次々と吐き出してくる時、パニックになる。

六宏君は手足が遅いだけでなく、慌てやすい。忙しくて、慌てて、手に負えなくて、更に頭のないハエのようになる。この時小林さんは台所に向かって連呼して怒鳴る。まじめな六宏君は実直さと労苦をいとわずに無理に負担を担いで、私達の見たところ彼は時に自分の能力以上の仕事を担いだ。

人にはそれぞれの長所があり、時には誠実さと優しさが多くのものを補うことができる。

松岡さんは47歳の主婦で、一人娘がいる。夫は銀行で頻繁に出張する営業の仕事をしている。彼女はいつも一緒に出張している。遠くない大阪であれ、遠い東京や九州であれ。2016年8月に私が来たばかりの頃、松岡さんは先輩のような姿で、お茶の出し方、お客さんへの挨拶の仕方、床をモップしてテーブルを拭く方法、コーヒーの入れ方、手洗いの仕方を指示してくれた。辛抱強く丁寧で、接待の礼儀をたくさん教えてくれた。

日本の飲食店では、仕事をする前に数分かけて手をきれいに洗わなければならない。爪の隙間と関節のしわの中の細菌をすべて取り除くために、1セットの基本の手洗いの流れがあって、手のひらを合わせて前後にこすって、指は交差して前後に洗って、手のひらで手の甲をこすって、手の甲で手の甲をこすって、手のひらで手首をこすって、そして小さいブラシで爪の隙間を磨くなど、ハンドソープの豊富な泡の浸透の下で、細菌は身を隠す場所がなくなる。

日本語の敬語はとても多くて、初心者の私にとって、それを使用する困難を克服しなければならず、更に心理上の恐怖感情を克服しなければならない。尊厳を持っている日本人の客の前で、本能的に、私はただ「戦々恐々」と「速戦即決」を考えることしかできない。

その度に、松岡さんがどのように対応するかを教えてくれる。松岡さんは大きくて豪華な車を所有し、ピアノの教師としてアルバイトをし、良質な生活を尊び、世界と争うことのない小さな町で高級感を維持している。

高尾さん、長尾さん、猪本さん、佐藤さん、藤村さん、半月しか付き合っていない森くん、それぞれに物語がある。藤村さんは18歳の息子に学費を払うために3つのアルバイトをしていた。私が辞めた時に3000円の金券をプレゼントしてくれ、ほのぼのとした感じだ。専門学校を卒業して半年間自宅で仕事をしていた森君は、小林君の幼なじみとして、このレストランの仕事に誘われた。

高松空港で日本の職場や日本人の社会的な振る舞いを初めて知った。私の目に映った彼らは、熱戦の局面で、表面は平静で裏は荒れているように見えた。穏やかな口調、毅然とした態度は、互いを尊重し、制約し合っている。

人間というものは、弱い者をいじめたり、強い者の噂話をしたり、少しは悪徳行為がないといけない。例えば、友達のポテトチップスをこっそりつまんだり、ルームメイトの歯磨き粉をこっそり使ったりするとか、これらの欠点は、日本人にもあるが、ただ「素養がある」形態で包装されている。道徳の頂点に立って自分のイメージを高くして、同時に相手に自身の考えを抑えさせて、相手にさせたいことを無意識にさせているわけだ。

日本語を知らない私、日本文化を知らない私、節度をわきまえない私、反撃の仕方を知らない私、この一年余りの人生の旅を二つの言葉でスムーズに終えることができた。それは「笑顔を多く」と「愚痴を少なく」だった。

高松空港で1年以上、皇太子さま、皇太子妃さま、マスクをした亀梨和也さん、AV女優さん、各種スポーツスターや日本のベテラン俳優、大久保佳代子さんと顔を合わせた。この1年余りの仕事の経験は私が2018年に日本の居住資格を申請する時の強力な保障になった。

私は日本に来てからずっと1年余りの間、社会保険、税、年金を納め続けたので、日本政府は私に正式な身分を与える時、これは一つの大きなプラスだった。

高松空港のこのレストランで出会った同僚たちにも感謝している。彼らは私に初めて知った日本の常識を教えてくれた。この特別でユニークな、二度とやり直すことのできない経験に感謝している。

どんな努力や粘り強さも無駄にならないのは本当だ。

《五年》(九)日本人客の「奇妙」な行為

(九)日本人客の「奇妙」な行為

全体的に言えば、日本人のお客さんは店員さんに敬意を払っている。言葉や行働は礼儀正しく、彼らは否定的な疑問形の構文で店員に尋ねたり、店員が料理を出すたびにはっきりと正しい発音で「ありがとう」を言ったりする。彼らはどのようにすれば店員の「客に感謝されたい」という心理を最大限に満足させることができるかを知っている。また、どのように適切に平等と友好を表現するかも知っている。

だが、何事にも二面性がある。このような素養の高さの反面、店員は客ならではの感情表現に慣れなければならない。彼らは自分を律するだけでなく、人をも厳しく律する。店員に対して示したすべての礼儀と修養はすべて客として望んだ相応程度の品質のサービスが行われるという前提の下で示したもので、もしサービスが彼らの心理的期待に達しないならば、私の目には「不可思議」に見える独特な行為が行われる。

日本人客の「奇妙な行動」には、以下のものが含まれるが、これらに限定されない。もちろん以下の例はビッグデータの分析、処理を経ておらず、私個人の観察に基づいているだけだが、実際に起こったことだった。

客が一人で食事をするときは、几帳面な顔つきになっている。団体会食の時、特にほろ酔いの後、よく大笑いする。音量はデシベルが大きくて、日本人はささやくように会話するという世間のイメージを打ち破るほどだ。

客が入店するとき、店員が案内してくれるのが一般的だが、店員が指し示す席をわざと選ばない客が多い。

忙しい時に売り切れてしまう料理があるが、偶然それを注文してしまったら、店員が説明しながら謝っても、「どうして?どうして売り切れたの?」と大げさで信じられないような口調で聞く。

とんかつ定食のように、食べ方を知らないふりをする客もいる。とんかつ定食にはゴマとソースが付いており、客は店員を呼んで食べ方を聞いてくる。

一部の客は、自分が注文したい料理のメニュー上の位置が見つからないふりをして、店員を呼んだ後、「店の前の看板にある料理がないのはどうしてですか?」と、疑問の中に質疑を交えた口調で聞く人もいる。店員が返事もしないうちに、「ああ、ここにあったのか。気がつかなかった、すみません……」と独り言を言っておしまいだ。

暇な時、店員は台所の端に立っていて、新しい客が入ってきたことに気づかないことがあるが、彼らはわざと長い間入り口に立って、まっすぐ店員を見つめ、店員が彼らを発見するのを待って、そして店員が急いで前に走って来て謝り、彼らを席に案内するという対応の流れを楽しんでいる。

入り口からまっすぐ席に着いた後、3分以内に店員が氷水を持ってこなければ、次の3分もしないうちに、怒って席を離れる人もいる。店員がお客さんを尊敬していないと思っているからだ。

レストランの一番奥にある3つのテーブルには、翌日のパイロットの朝食皿を置く必要があるため、「予約席」の札が置かれているが、一部の客はこれらの席に直行し、他の十数席の空席を見て見ぬふりをしていた。この時、礼儀正しく退席を勧めると、予約席に最も近い空いた席ではなく、予約席から最も遠い席を選ぶ。

忙しい時、入り口に「店内満席」という立て札が置かれていたが、多くの客は札を無視したり、満席の店内を無視したりして、店員に「満席ですか?あとどのくらい待ちますか?」と尋ねた。もう一つのケースは、店内が満席から非満席に変わったのに、店員が立て札を取り忘れたときだ。空っぽのホールを見て、立て札を指さして「ここに看板が置いてあります。満席ですか?入ってもいいですか?」と聞く。

客は一人で食事に来て、一人席ではなく四人席を選ぶ。店員が一人席に座るように勧めると、憤然として店を出ることもある。

同じグループの客が同時に入店しない。例えば一行4人で来て、2人先に入ってきて、店員が人数を聞かずに氷水を2杯持ってきた場合、「あと2人……」と言って約3分後に別の2人が現れる。このように1つのグループを2つに分けて、数分間隔で入店する方式はよく見られる。

客がコーヒーを注文するとき、店員は熱いのか冷たいのかを聞かず、天気によって自分で判断してしまうと、往々にして間違えることがある。真冬にアイスコーヒー、真夏にホットコーヒーを求めることが少なくないが、これらは店員さんの心の中での判断とは正反対だ。

客が牛肉うどんを注文し、店員が持ってくると、自分が注文したのはじゃこ天うどんだと言ったり、3分前に自分の口でチョコレートケーキと言っていたのに、さっき注文したのはチーズケーキだと目を開けて嘘をついたりすることもある。

一回ごとに店員を呼んでひとつの料理だけを注文し、一度食べてベルを五回鳴らし、五回注文した客もいる。

会計の際、店員が客にクレジットカードが使えないと伝えると、彼らはびっくりし、信じられない様子で、怒って不本意に別のカードを取り出し、「おかしい。どうして使えないの?」と悔しそうにつぶやいた。カード読み取り機が信号を送信するのに時間がかかりすぎると、彼らは「どうしてこんなに長くかかるの?」といらいらすることもある。

おつりの際に、100円玉がなく、事前に説明せずに10円玉を山のように渡してしまうと、失礼だと怒ってしまう。

客が誤ってコップをひっくり返したとき、店員はすぐに拭いて乾かし、新しい氷水を手渡さなければならない。

客がテーブルの上の醤油瓶をひっくり返すと、店員はすぐに客をなだめて、「大丈夫です。私に処理させてください。」と言う。

客が1つの料理を食べ終わったら、すぐに空の皿を受け取ってテーブルの上に空間を空けなければならない。

客が注文した飲み物を提供するのは、食前なのか、食後なのか、食事中なのか、はっきり聞く必要がある。

要するに、多くの状况の下で、日本の客は謙虚で礼儀正しく婉曲だが、ときに文化の根源にある独特の「変な特徴」を現すことがある。目を見張って大袈裟に驚いたような口調を装って、少し神経質な目とあまりにも厳しい心理的な期待がある。

小さなレストランでは、日本社会の「誰もが自分にも他人にも自制を強要する」度合いの深さを反映している。